福沢索引2006年3月のブログ・現代日本語「夢」[昔、書いた福沢226]2020/02/26 07:27

柳家三太楼の「天狗裁き」<小人閑居日記 2006.3.5.>
 3月1日の第452回落語研究会。 三太楼、天狗になった頃には額に汗して、
この落語が、人間心理、天狗心理の深奥をえぐって、上質の心理小説にも匹敵
することを証明した。

「夢」=「将来の希望」の初出<小人閑居日記 2006.3.8.>
 現代日本語には、もう一つの「ゆめ」=「将来の希望」がある。 その初出
を『日本国語大辞典』は、木下杢太郎(1914(大正3)年)だとする。 私は
明治、福沢諭吉の『福翁自伝』の最後に、これからやりたい三ヶ条というのが
あったのを思い出す。
「回顧すれば六十何年、人生既往を思えば恍として夢の如しとは毎度聞くとこ
ろではあるが、わたしの夢は至極変化の多いにぎやかな夢でした」「(『西洋事情』
などは)一口に申せば西洋の小説、夢物語の戯作くらいにみずから認めていた
ものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情のた
ぐいではない」というのもある。 この「夢」も「夢物語」も「寝て見る夢」
だけれど、「将来の希望」に近い気がするのは、贔屓目だろうか。
 詳細な「語句・事項」索引のある夏目漱石を見たら、「夢と現實」「夢を抱く
人」が『虞美人草』(1907(明治40)年)にあるというではないか。

「夢と現實」<小人閑居日記 2006.3.9.>
 昭和41(1966)年刊『漱石全集』第三巻『虞美人草』を見る。
 「夢を抱(いだ)く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇の遠
きより切り放して、現實の前に抛げ出さんとしつゝある。車の走る毎に、夢と
現實の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現實がはたと行
き逢ふて区別なき境に至つて已(や)む。夜はまだ深い。」
 この「夢」は、「はかない、頼みがたいもの。夢幻。」だろうか。 「夢と現
實」は、「ゆめとうつつ」のようだ。 私の夢は、現実の前に、はかなくも消え
て行ったのだった。