イザベラ・バード、明治11(1878)年東北・北海道の旅 ― 2021/06/08 07:05
日本を旅すると言えば、BSプレミアムの「プレミアムカフェ」で、5月25日に2012年放送の「にっぽん微笑みの国の物語」イザベラ・バードの旅をやっていた。 秋田県小坂の「康楽館」だったかと思うが、芝居小屋を使って、中村梅雀が文字通りの舞台回しを務めた。 イザベラ・バードについては、「等々力短信」に「明治十一年、日本」(第422号・昭和62(1987)年4月5日)、「夜明け前」(第423号・昭和62(1987)年4月15日)を、<小人閑居日記>に同行した18歳の通訳伊藤についてのフィクションを読んで、中島京子著『イトウの恋』を読む(2010. 8.15.)、イトウの手記、発端(2010. 8.16.)、好きな女ができたなら、とDは言った(2010. 8.17.)を書いた。
明治11(1878)年、47歳のイギリス人女性が単身、伊藤という18歳の通訳をつれただけで、東北、北海道を巡る一大旅行を敢行した。 イザベラ・バードは、その著書『日本奥地紀行』(平凡社・東洋文庫、高梨健吉訳)のはしがきに、日本への旅行の目的が「健康回復の手段としての外国旅行」であったと、述べている。 しかし、どう考えても、この奥地旅行が、幼い時から病弱で、脊椎の病気とリウマチに悩まされている人に、すすめられるものではない。 横浜で計画を聞いた、あのヘボン博士も反対し、「やったところで決して津軽海峡まで到達することはできないだろう」と忠告したという。 イザベラ・バードの、苦難をものともしない、気力と好奇心の強さには、感嘆するばかりだ。
6月9日、3台の人力車は、東京の英国公使館を出発した。 ゴム製の浴槽、組み立て式のキャンバス寝台、メキシコ風の鞍と馬勒(ばろく)、相当な量の衣服、少量の食糧、ブラントン氏日本大地図、『英国アジア協会誌』数冊、アーネスト・サトウ氏の英和辞典などが、主な荷物であった。 粕壁(春日部)で最初の一泊、日光まで三日かかっている。
宿屋では、どこでも、蚤(ノミ)と悪臭、騒音と人々の好奇の目に、悩まされている。 「右隣りの部屋には日本人の家族が二組、左隣りのには五人いたからである。私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし私的生活(プライバシー)の欠如は恐しいほどで、……(中略)……隣人たちの眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった。一人の少女は、部屋と廊下の障子を二度も開けた。一人の男が……後で、按摩をやっている盲の人だと分かったのだが……入ってきて、何やら《もちろん》わけのわからぬ言葉を言った。その新しい雑音は、まったく私を当惑させるものであった。片方ではかん高い音調で仏の祈りを唱える男があり、他方ではサミセン《一種のギター》を奏でる少女がいた」。 このくだりを読んで、すぐ思い出したのは、落語の「宿屋の仇討」で、番頭の伊八が繰り返し聞かされる、武士の文句である。 「昨夜は相州小田原宿、大久保加賀守様のご城下、相模屋と申す間狭な宿に泊まりしところ、親子の巡礼が泣くやら、駆け落ち者が、夜っぴて話をするやら、とんと寝かしおらん」という、あれだ。
イザベラ・バードは、日光から、会津、新潟、米沢、山形、秋田、青森、函館、室蘭と旅することになるのだが、彼女が観察記録した、明治維新後10年の、日本の状況は、まだ「未開野蛮」の語が適当だ。 そこに、福沢文明論の背景がある。(「等々力短信」第422号・昭和62(1987)年4月5日)
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