タケが蔦重、蔦屋重三郎に教えられたこと。2021/07/01 06:57

 車浮代の小説『蔦重の教え』で、タケの武村竹男が直接、蔦重、蔦屋重三郎に教えられたこと。

 人生は知恵比べ、考え抜いた方が勝つ。 「知恵を絞った奴に騙されたんなら、引っかかった方が負けなんだよ。騙されて悔しけりゃ、知恵を絞って騙し返せばいいし、でなきゃ己の馬鹿を呪って、二度と騙されないよう用心すりゃあいい」 「知恵ってもんはよ、『あがり』に行くためだけじゃなく、騙されて『ふりだし』に戻らねえためにも絞るもんだよ」

 『三方よし』の関係をつくる。 一冊丸々歌麿の絵で構成される狂歌絵本の根回しのため、蔦重が亭主役で文人たちを接待する『吉原連』という狂歌の会が、妓楼「大文字屋」で開かれる。 客人の詠んだ狂歌に、歌麿が即座に絵をつけ、追って本になるのだ。 客人からすれば気分よく遊ばせてもらえ、蔦重からすれば、遊興費用さえ持てば、原稿料など払わずに大衆が求める本が出版でき、歌麿からすれば、名だたる文人に認められた絵師、という肩書がもらえることになる。まさに〝三方よし〟の関係だ。

 三方向から見る目を持つ。 「実際にてめえが見ている目と、相手からてめえがどう映っているかってえ目、最後に、天から全部を見通す鳥の目だ。この三方から物事を見りゃあ、失敗しないし、騙されねえし、新しい考えも湧くってもんだ」

 己の天分を知った上で仕事に活かす。 「天分ってのは、お天道(てんと)さんが与えてくださった才覚だ。俺は、そいつを大事に使わねえ奴は嫌えだ」  人は得意なことで失敗する。 「それと、いい機会だから教えておいてやる。天分に甘えちゃならねえ。人ってのはたいがい、得意なモンで大きな失敗をするもんだ」 「好きだから、得意だからできて当然だと思ってなめてると、足元をすくわれて痛い目を見ることンなる」

 好きな仕事で人の役に立つ。 「てめえが好きでやってる仕事が人に喜んでもらえるなんてよ、こんな目出てぇことはねえと俺は思うぞ。それこそ天分を活かす、ってやつだ。俺が版元なんて商売を始めたのも、てめえの好きと、人様を驚かしてえ、喜ばしてえって気持ちが合致したからだ」

 悪い予感は天からの忠告と心得、なおざりにしない。 「何かがヘンだと感じる時や、悪い予感がする時があるだろう? あれがそうだ。ありゃあお天道さんが〝気ィつけろ〟って教えてくだすってるんだよ。その声を素直に聞いて、ちゃあんと手を打ちゃあ問題ないが、悪い予感を気のせいだとか、まあ大丈夫だろう、なんてほっとくと、後で大変な目に遭うことになる。そんな時は何事もなくても、実はてめえの知らねえところでえらいことになってたり、評判を落としていたりするもんだ」

 何かを捨てなければ、新しい風は入ってこない。 「何かを捨てりゃあ、空いた隙間に新しい何かが入ってくるもんだ。そうやって風を起こさなきゃあ、いつまでたっても運は回らねえぜ」

飛鳥山(あすかやま)と王子、地名の由来2021/07/02 06:58

 朝日新聞夕刊、猫の「マダニャイとことこ散歩旅」は6月16日から、「本郷通り」に入っている。 大河ドラマの渋沢栄一関連で、飛鳥山公園から始まっている。 「マダニャイ」とは何か、今、これを打っていて気付いたのだが、漱石の『吾輩は猫である』の猫で、「名はマダニャイ」のだった。 6月16日のコラム末尾に、「マダニャイ 夏目漱石作品をこよなく愛する子猫。好物はサバ缶。朝日新聞オリジナルキャラクター。」とあった。

 飛鳥山の名前の由来だが、たまたま見た6月24日のNHKテレビ『日本人のおなまえっ!』でもやっていた。 公園北側の飛鳥山を見上げる道路の石垣の上部に、一対の狛犬を見ることができる。 かつて飛鳥権現があり、やがて王子神社に合祀されたから、王子神社の朱印帳の表紙に八咫烏(やたがらす)の絵がある。 徳川八代将軍吉宗は、紀州出身だから、熊野に思い入れがあり、周囲に熊野ゆかりの地名や寺社のある、飛鳥山のこの地に1300本の桜を植え、庶民の花見を許した、と。

 「マダニャイとことこ散歩旅」「飛鳥山公園」は、さらに詳しい。 平安から室町期にこの地を支配した武士団の豊島氏は紀伊の守護を務めた。 そのため紀伊を本拠地とする熊野信仰に篤く、領地の荘園を熊野三山に寄進。 熊野からは飛鳥明神(上記、飛鳥権現だろう)を勧請し、飛鳥山の由来になった。 近くの王子神社も豊島氏が熊野から「若一(にゃくいち)王子」(若王子権現)を迎えた(勧請した)ことでその名がついたとされる(「王子」の地名の由来)。 「王子」は熊野権現の御子神の呼称で、熊野信仰そのものだ。 飛鳥明神は、王子神社に合祀されたため、飛鳥山に社殿や祠(ほこら)はないが、痕跡と思われる狛犬は(上に書いたように)今も公園北側の山腹に残されている。

 徳川吉宗は、タカ狩りや日光東照宮への参拝の帰りに、武蔵野台地の東端にあって、見晴らしがよいこの地を、度々訪れた。 1720(享保5)年以降、江戸城の苗木を飛鳥山に植樹し、上野と並ぶ桜の名所に育てた。 鳴り物や仮装、夜桜見物が禁じられていた上野(落語「花見の仇討」を知る者には違和感があるが)とは対照的に、歌舞音曲が許され、庶民が自由に楽しめた。 吉宗自ら無礼講の酒宴を催し、家臣にオランダ人の衣装を着せて踊らせたという。 吉宗の在職中に建てられた「飛鳥山碑」には、そんな熊野信仰と飛鳥山との関わりが漢文で記されている。 浮世絵でこの石碑と芝山、桜の三つが描かれれば、飛鳥山であることを意味した。 石碑の材料は紀州産の「青石」、公園に今も残る歴史の断片は、吉宗の古里への愛情を物語っている、と平畑玄洋記者は締めくくっている。

第51回枇杷の会、「夏」の通信句会2021/07/03 06:59

大磯の鴫立庵へ吟行する予定だった第51回枇杷の会も、通信句会になった。
兼題は「夏」の季題の入った句一句以上と当季雑詠で七句。 私は、次の七句
を出した。
  山ほどの好奇心抱き夏の雲
  梅雨空や知の巨人とは同い年
  まくら振りたちまち脱ぐや夏羽織
  起き抜けに宿の下駄にて夏の曉
  海近き駅を降りれば夏にほふ
  七十六年摩文仁の丘に夏の雨
  キラキラとB29や夏の空

私が選句したのは、次の七句。
  溶岩(ラヴァ)原を呑み込んでゆく夏野かな  英
  友達のゐぬ子に来たる夏休           祐之
  夏服を少しルーズに着る女            孝治
  植え替えし鉢より新た蟻の道           たから
  厨房に酢のかをりたつ夏料理           かおる
  行き止まる道の十薬汚れなき           たから
  待つほどに音立てて落つ杏かな          たから

 私が選句した内で、英先生選にもあったのは、<夏服を少しルーズに着る女 孝治>、<厨房に酢のかをりたつ夏料理 かおる>、<行き止まる道の十薬汚れなき たから>の三句だった。

 私の結果。 <キラキラとB29や夏の空>を英先生、一舟さん、経さんが、<梅雨空や知の巨人とは同い年>を英先生が、<山ほどの好奇心抱き夏の雲>をたからさん、経さんが、<まくら振りたちまち脱ぐや夏羽織>をかおるさんが採ってくれた。 英先生選2句、互選5票、計7票、まずまずの結果だった。

「徳川慶喜、パリ万博大作戦~600万ドルを確保せよ」2021/07/04 07:37

「英雄たちの選択」6月23日「徳川慶喜、パリ万博大作戦~600万ドルを確保せよ」「600万ドル借款交渉 知られざる実像に迫る」が、面白かったので、2回にわたって、書いておく。

将軍・徳川慶喜は、1867(慶応3)年パリ万博に弟・昭武(15歳)を代表とする使節団を派遣する。 1866(慶応2)年、慶喜の後ろ盾になっていた孝明天皇が亡くなる。 幕府は第二次長州征討に事実上敗北し、そこには薩長の連携があった。 実は、使節団には、追い込まれた幕府の巻き返しを図る密命が託されていたのである。 キレモノ小栗上野介が、フランス公使ロッシュと練り上げた600万ドルの資金を調達して、軍艦や武器を購入し、薩長に対抗しようとする起死回生の策だった。

万博外交が重要で、幕府が国際的に日本を代表していることを認めさせる必要があった。 パリ万博、42か国が参加し、7か月にわたって、1500万人が見物した。 日本の茶屋、芸者が煙草を吸うのが評判で、日に1300人が訪れた。 昭武の使節団は33名、渋沢栄一(28)が会計係兼書記だった。

軍事力の増強に迫られていた幕府は、勘定奉行や外国奉行の小栗上野介が陣頭指揮に当り、数年前からフランス公使レオン・ロッシュと交渉し、フランスから240万ドルを借款、横須賀造船所、製鉄所の建設を進めていた。 当時、フランスで蚕の疫病が発生、生糸が80%減少し、絹織物産地リヨン出身のロッシュは、1866(慶応2)年8月、小栗上野介と600万ドルの借款による軍艦・大砲の調達と、引換えに日本の生糸の独占輸入の契約を結ぶ。 600万ドルの資金調達には窓口としてフランスに会社をつくって投資を募るものだった。 勝海舟は小栗から、600万ドルによる軍艦で、薩長を倒し、他の大名も削小し、郡県制に改めるという最機密の計画を聞いていた(『開国起源』)。 この計画を引き継いだ慶喜は、イギリスが薩長を支援していることを知っていて、フランスの力を借り「夷をもって夷を制す」ると、フランスに傾倒した。

島田久仁彦さん(国際交渉士、元国連紛争調停官)…「焦ったね」フランスに有利過ぎる交渉。 木内昇さん(作家、『万波(ばんぱ)を翔(かけ)る』)…貴公子昭武(満14歳)で、徳川家が日本の長だとアピール。 鹿島茂さん…慶喜が維新後亡くなる前に、渋沢栄一に語っている(『昔夢会筆記』)、「幕府は自分の代で終わるだろうと思い、昭武に外国留学させて、その後のことを考えた」、慶喜は亡命政権を考えるほど追い詰められていた。

 果たして、600万ドルの資金調達は成功するのだろうか。

薩摩藩の妨害で600万ドル調達に失敗2021/07/05 07:04

1867(慶応3)年3月、使節団はパリに到着、ナポレオン三世に謁見した。 万博会場へ行って驚く、薩摩が日本のスペースの1/3を占め、展示品を並べていた。 薩摩琉球国「グーベルマン太守サツマ」を名乗り、フランス人へ授与する勲章まで用意していた。 書記官の田辺太一が薩摩に抗議して交渉し、「琉球島王」の呼称を削り日本の国旗を掲げることにするが、「グーベルマン(政府)」を藩と解釈する決定的ミスをして、受け入れてしまう。 言葉の定義を、まず決める必要があった。 数日後、現地の新聞は一斉に「徳川将軍は日本の皇帝ではなく、薩摩ほかの大名と同等である」と書いた。 それは、600万ドル資金調達の為の会社に投資する人には、リスクになる。 薩摩は、2か月前にパリへ行って、準備していた。 五代友厚と親しいモンブラン伯爵がシナリオをつくった。 モンブラン伯爵は、相当怪しい人物で、薩摩と幕府の両方に働きかけたが、幕府は蹴っていた。 イギリス外務省の報告書には、幕府使節団の通訳アレキサンダー・シーボルト(フランツ・フォン・シーボルトの息子)が、以前イギリス領事館通訳だったので、薩摩藩に情報を伝えるスパイだったとある。

 ジャパンタイムズが、フランスの生糸独占輸入計画の暴露記事を発表した。 1860年には、英仏通商条約が締結され、互に自由貿易を保証していた。 たまたま前年の1866年メキシコ遠征に失敗して撤退した、フランスの外交政策の転換期で、ムスティエ(ムーティエ)外相は各国との協調を図っていて、ロッシュに注意し、日本との計画にストップをかけた。 600万ドル借款交渉は暗礁に乗り上げた。

 3か月前、ロッシュは慶喜に進言し、生糸独占輸入を蝦夷地の鉱山開発権と取り替える。 幕府は安政3(1856)年8月、函館の鉱山資源を調査し、見込みありとしていた。 慶喜は苦悩していた。 鹿島茂さん…慶喜は天皇主義者で、天皇による立憲君主制、自分が首相になる、郡県制の国をつくることを構想していた。 1867(慶応3)年5月、慶喜はフランス通の栗本鋤雲を呼び出し、日本の政治的主権者は徳川将軍であると、フランスや欧州各国に認識させよ、フランスに蝦夷地の鉱山開発権を提案し、600万ドルの資金調達を実現せよ、と指示した。 8月、栗本鋤雲はパリに着いたが、昭武一行は欧州各国へ旅行中だった。 交渉するが、フランスは鉱山の専門家が細かい資料のないことに難色を示す。

 10月14日、慶喜は大政奉還。 1868(慶応4)年1月3日、鳥羽伏見の戦い。 幕府は瓦解。 小栗上野介は、閏4月6日、知行地上州権田村で非業の死を遂げる、42歳だった。 木内昇さんは、栗本鋤雲を心の中で「栗本先輩」と呼んでいて、人柄がよく、情もある、人の使い方も上手い、フラットな考え方の人で、自分の能力を人のために使った人だと語った(磯田道史さんも大賛成)。 そして栗本は、パリでの交渉中、英仏代理戦争になることを恐れていた、勝海舟も「英は渇狼、仏は飢虎」と言っていた、と指摘した。 田辺太一は『幕末外交談』に、モンブラン伯爵を使わなかったのが失敗だと書いている。 島津斉彬が、若き五代友厚を起用し、五代友厚がモンブランを使ったという、異能、異才のつながりが薩摩の成功となった。