『青天を衝け』と福沢の『西洋事情』 ― 2021/10/07 07:07
『青天を衝け』第29回は「栄一、改正する」。 渋沢栄一は、大蔵省や民部省、外務省などの垣根を超え、広く日本に必要な物事を考え、即実行できるよう「改正掛(かいせいがかり)」を設置。 静岡藩から呼び寄せた前島密、杉浦譲、赤松則良を加えた改正掛をまとめ、皆で次々と新しいアイデアを立案し実行する。 前回の「篤太夫と八百万の神」で、新政府への出仕を求められ、民部・大蔵省租税司の正(かみ)の辞令を受け取った渋沢栄一が、それだけの権限があったとは思われないが、間違って太政官首脳の会議に入り込み、「改正掛」を提言し、大隈重信の庇護の下で持論を展開することになった流れなのであろう。 栄一は、かつて攘夷横浜焼き討ちの仲間だった従兄尾高惇忠を新政府に誘って、「もう侍の世はごめんだ。壊すんじゃねえ、作るんだ。己の手でこの国を救えるなら、なんだってやる」と言う。 尾高惇忠は、富岡製糸所の設立に向かうことになる。
「福沢諭吉」が二か所に出てきた。 一つは、前島密が飛脚代に多額の出費をしているのを政府で制度をつくれば節約できると提案するところ。 杉浦譲が「福沢殿は『西洋事情』で「飛脚印(ひきゃくじるし)」、飛脚の権は全く政府に属し、と言っている」と。 『西洋事情』初編巻之一「備考」に、「飛脚印」がある。 「西洋諸国にて、飛脚の権は全く政府に属し、商人に飛脚屋なるものなし。故に外国に文通する者は勿論、国内にても私(わたくし)に書翰を送るを得ず。必ず政府の飛脚印を用ゆ。其法、政府にて飛脚印と名(なづく)る印紙を作り、定価を以て之を売る。諸人之を買ひ、書翰を送るときは、路の遠近、書翰の軽重に従ひ、夫々の印紙を上封(うわふう)の端に張て飛脚屋(市中一町毎に、箱を戸外に出せる家)に投ずれば、直(ただち)に先方へ達す。」
宿場を意味する「郵」と、便りで「郵便」という名を考え、前島密は制度を設計し提案、いずれ全国に展開する、自分は「郵便の父」になるというが、鉄道借款の処理でイギリスへ派遣されることになり、後を杉浦譲が引き継ぐ。 明治4(1871)年3月、新式郵便が開始された。 杉浦譲が弟への手紙を投函、三日後に切手が貼られ判が押された返信が届いて、一同歓喜。 栄一も静岡の慶喜に手紙を書いた。
もう一つの「福沢」。 栄一と度量衡掛が「福沢殿の度量衡の講釈は、ちっともわからないな」と、話しながら廊下を急ぐ。 『西洋事情』初編巻之一「備考」の「附録」に、「英亜の一フートは我一尺強に当り、一インチュは十二分の一にて八分三釐(りん)強に当る。(以下略)」「仏蘭西の一メートルは我三尺三寸弱に当る。(以下略)」とあるあたりを言っているのだろうか。
ともかく、明治新政府(の改正掛)が、広く日本に必要な物事を考え、即実行するために、しばしば、福沢の『西洋事情』を参考にしていたことは、疑いのないところだろう。
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