平石直昭さんの「福沢諭吉をどう読むか」序論 ― 2022/01/27 07:04
記念講演会は、平石直昭東京大学名誉教授、福澤諭吉協会理事の「福沢諭吉をどう読むか―『学者安心論』の位置付けを中心に」だった。 平石さんは、昨年12月に『福澤諭吉と丸山眞男―近現代日本の思想的原点』(北海道大学出版会)を上梓された。 幕末から明治に、日本の文明化と独立保持のために奮闘した福沢、戦前から戦後の日本がひっくり返る時代に、福沢を肥やしにして、真の民主化と国民主義の変革を求めた丸山。 「脳中大騒乱」時代、知的リーダーシップを発揮して、日本の変革に賭けた二人の思想形成、知的格闘は、持続的発展の例であり、それを跡づけることで、近代と現代の日本思想史を統一的に眺めるのに資する、とする。 この講演は、その第3章の三「理論」と「政談」、追記の『学者安心論』を論じた部分を主な素材として、時間の流れで再構成した。 (会場ではA4一枚のレジュメが配られたが、残念ながらリモートでは入手出来なかった。講演の聞き書きに加えて、「国権可分の説」、『学者安心論』、『分権論』と、『福澤諭吉全集緒言』、「政府は人望を収むるの策を講ず可し」、『福澤諭吉事典』の関係個所を私なりに読んで、書いてみたい。)
二つの問題を考察する。 (1)明治8(1875)年半ばから明治9(1876)年末にかけ、人民と政府に関する福沢の主張は二転三転する。 この短期的転変をどう考えるか。 (2)官民調和論の起源の問題。
(1)明治8年6月の「国権可分の説」では、人民に気力がないけれど、形はどうあれ、政府と人民が協力すること、民会の設立を支持する立場なのは明らか。 だが10か月後の、明治9年4月の『学者安心論』では、政府は裁判・軍事・徴税を担い、民間は自家の「政」に専念し、貿易・流通・開墾や運輸など市民社会の領域で活動するのも、広い意味の「政治」参加であり、間接的なのがよろしいと、民権論を否定、後退する。 明治9年末執筆の『分権論』では、もういっぺん引っくり返して、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を参考に、ガバメント「政権」-外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、アドミニストレーション「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など国内各地方の人民の便宜・幸福をはかる権力、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。 「治権」を士族層が担うことで、自治の訓練をすべきだとした。
(2)福沢の官民調和論は、『福澤諭吉全集緒言』「分権論以下」に、明治10年刊行の『分権論』でも、明治15年からの『時事新報』論説でもなく、それより前からあった、とある。 明治7、8年の頃だったか、大久保利通内務卿、伊藤博文と三者会談で、又それ以前の明治初年に鮫島尚信宅で大久保と話していた。 時期に福沢の記憶の混同があり、全集の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」(『福澤諭吉全集』第20巻156頁)と名付けた明治9年3月の廃刀令を先日とした論考が、大筋で『学者安心論』と一致しており、一対のものと考えられる。 『分権論』では、スペンサーの『第一原理』やトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を読んで、国内情勢の変化に対応する策、士族の固有の気力を利用するという、新しい見方を提示した。
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