加藤秀俊さんが亡くなっていた2023/11/06 07:03

 加藤秀俊さんが9月20日に93歳で亡くなっていたのを、11月2日「等々力短信」に毎月返信を下さる読者から頂いたお手紙で知った。 加藤さんには10月の短信もお送りしていたから、ひどく驚くと同時に、申し訳ない気がした。 短信第1145号『九十歳のラブレター』(2021(令和3)年7月25日)に書いたように、加藤さんのご本を愛読したことが、そもそも1975(昭和50)年に短信を始めるきっかけの一つになったからだ。 訃報が伝えられたのは10月2日か3日らしい、うっかりしていたのは、1日に三田あるこう会で松戸の戸定邸に行き、2日は三田キャンパスでクラブの会があったりしたからだろうか。

 お手紙には、10月23日の『静岡新聞』文化欄の、松永智子東京経済大准教授の「加藤秀俊さんを悼む」「「実感」こそ学問の出発点」の切り抜きが同封されていた。 そこに加藤さんは「中公新書刊行のことば」の著者とあったが、それを私は知らなかった、『整理学』『人間関係』『自己表現』『情報行動』『取材学』など、加藤さんの数々の中公新書を読んでいたのに。

 あらためて「中公新書刊行のことば」1962(昭和37)年11月を読む。 さわりを引こう。 「いまや、書物によって視野も拡大し、変りゆく世界に豊かに対応しようとする強い要求を私たちは抑えることができない。この要求にこたえる義務を、今日の書物は背負っている。」 「現代を真摯に生きようとする読者に、真に知るに値する知識だけを選びだして提供すること、これが中公新書の最大の目標である。」 「私たちは、知識として錯覚しているものによってしばしば動かされ、裏切られる。私たちは、作為によってあたえられた知識の上に生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。中公新書が、その一貫した特色として自らに課すものは、この事実のみの持つ無条件の説得力を発揮させることである。現代にあらたな意味を投げかけるべく待機している過去の歴史的事実もまた、中公新書によって数多く発掘されるであろう。」 「中公新書は、現代を自らの眼で見つめようとする、逞しい知的な読者の活力となることを欲している。」

 短信第1145号に私は、加藤さんの『九十歳のラブレター』(新潮社)を、「80歳になった私は、夫婦であと十年の生き方を、この本に教えられた」と書いていた。 もう一冊、書棚にあった加藤さんの『おもしろくてたまらないヒマつぶし 隠居学』(講談社)の帯、「森羅万象、世の中はおもしろいことだらけ」「人間、「目的」のある作業をしなければいけない時期がある。でも、現役をはなれて自由になった「隠居」には「目的」なんかなくてよろしいのである。なにかを知って、ああ、おもしろいねえ。きょうも物知りになった、というんで夜、寝る前に満足感にひたりながらニヤニヤできればそれでいい。」

加藤秀俊さんのニフティサーブ「現代文化研究フォーラム」2023/11/07 06:59

 1963(昭和38)年の『整理学』によって、加藤秀俊さんの魅力にとらえられた私は、加藤さんの本を愛読した。 『整理学』につづく中公新書『人間関係』『自己表現』『情報行動』、『アメリカの小さな町から』『イギリスの小さな町から』『ホノルルの街かどから』の海外生活三部作、そして『生きがいの周辺』『生活考』『暮しの思想』『続・暮しの思想』『独学のすすめ―現代教育考―』といった一連の本である。 そこには、身近なことから説きおこして、生活や人生に豊かなものをもたらし、やがては社会をよりよく変革するような深い内容が、ごくやさしい言葉でのべられていた。 そんなことができるのだと知ったことが、「短信」創刊のきっかけの一つにもなった。 電話で何事もすます世の中に、手紙の楽しみを、なんとか復活させ、広められないか、吸う息もあれば吐く息もある、情報を受け取るだけでなく、素人なりに発信してみようというのが、創刊の趣旨だった。

 かつて「パソコン通信」というものがあった。 加藤秀俊さんは1995(平成7)年の4月から、大手パソコンネットのニフティサーブに「現代文化研究フォーラム FBUNKA」を開設なさった。 名前は硬いが、芸術のような「高級文化」を扱うのではなく、私たちの日常の暮しそのものである「生活文化」が、このフォーラムのテーマになっている。 毎日使っているさまざまな「モノ」や、経験した「コト」を、お互いの体験を通じて歴史的にふりかえりつつ、文化を考える。 社会の激しい変化の中で消えていってしまう庶民生活の記録を後世に残す、そんなフォーラムだという。

 私は1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信していた。 加藤秀俊さんには、郵送の「等々力短信」を初めの「広尾短信」の頃からお送りしていたので、私がパソコン通信をやることも、庶民文化史のようなもの(早い話が落語)に興味を持っていることも、よくご存知だった。 お誘い頂いて、「現代文化研究フォーラム FBUNKA」に参加させてもらった。 「ご隠居」を名乗る加藤秀俊さんが、「八っつあん」こと小沢昭一さんもいらっしゃるこのフォーラムで、落語のことになると、私に話を振ってこられるので、まことに困った。 与太郎みたいに、おたおたしながら、書き込んでいたものだ。

「パソコン通信」で落語の話題2023/11/08 07:05

「現代文化研究フォーラム FBUNKA」で、いま廓ばなしは放送禁止なのだろうかという話題が出た。 私は、寄席やホール落語では、今でもどんどん演じられているけれど、放送ということになると、ある程度は放送局のほうで自主的に演目を選ぶということはあるだろうから、放送の機会は少なくなっているかもしれないと書いて、戦争中の「はなし塚」のことにふれた。

 昭和16年、落語関係者が寄り集まり、折からの戦時色にふさわしくない演題は遠慮したほうがいいだろうという相談をして、廓もの、花柳界もの、酒もの、妾もの…を中心に53種の演目を自粛することとし、その姿勢を示すために、浅草本法寺に「はなし塚」というのを建てて、そこへ葬るという形をとった。  53種(「禁演落語」と呼ばれたが、当局が「禁止」したという形はとっていない)のうち、廓ばなしは31種あった。 たとえば「五人回し」「品川心中」「三枚起請」「居残り佐平次」「明烏」「子別れ上」「付き馬」といった咄である。 こんなのがやれないんじゃあ、世の中真っ暗という気がする。 放送局の「はなし塚」は、勘弁してほしいものだ、と。

 加藤ご隠居の、戦後、葬った「はなし」を再びこの世に生き返らせるための儀式かなんかあったのだろうかというお尋ねで調べると、敗戦の翌年昭和21年9月30日、復活祭をやっていた。 戦後の落語黄金時代の幕開けである。

 そんな関係で、加藤秀俊さんから「パソコン通信」についての教科書か入門書のようなものをつくるのでと、原稿の依頼があった。 私のような者でいいのかと確かめて、資料をいろいろ集め、某大手家電メーカーで「パソコン通信」を運営している友人にも相談したりしていたのだが、なぜか出版に至らず、その話は立ち消えになった。 むしろ、ホッとしたのを憶えている。

 「現代文化研究フォーラム FBUNKA」がなくなったあとも、加藤秀俊さんから落語についてお尋ねの電話があったりした。 かつて「唖の釣」という演目があったが、今は何というのか、と。 「まぬけの釣」と、答えることができた。 この噺、今村信雄『落語事典』(青蛙房)も、矢野誠一『落語手帖』(講談社)も、「唖の釣」となっているが、まぬけなワープロソフトは「おし」では、すんなり変換しない。

加藤秀俊さんの寒中見舞状から2023/11/09 07:03

 加藤秀俊さんのお年賀状は、1月10日過ぎに「寒中見舞」の形でいただくのが、常だった。 2005年は、「雪の会津若松から」の褐色の見出し、青色の本文で、「むかし『北越雪譜』『雪国の春』などを読んでから、できるだけこの季節、積雪のつらさの一端を体感するため、雪国への旅行をしてきました。ことしは会津若松。ほんとうは只見の三島町の小正月を見学したかったのですが、もう体力に自信なく、当地の福島県立博物館で勉強し、有名な「十日市」のにぎわいをみております。小正月をむかえみなさまによき年でありますように。」とある。

 2008年は、「寒中お見舞い申しあげます」の見出しで、「恒例の「雪国の春」をたずねての旅、ことしは金沢から若狭路をとって、小浜に足をはこぶことにしました。若狭の井戸、八百比丘尼伝説など、いろいろ見学したいところがありますが、とくに廃仏毀釈以前の日本の心をとどめる神宮寺のありさまを体感することをたのしみにしております。年をかさねるごとにいささか大儀ではありますが、ことしも無理のないように、あれこれ見聞をひろげたいとおもっています。みなさまにも、どうかおすこやかにおすごしくださいますように。」

 ここに出て来る神宮寺は、福井県小浜市神宮寺町にある天台宗の寺。 霊應(れいおう)山(鈴應山)神願院と号する。 寺伝によると、714(和銅7)年滑元(こつがん)(和朝臣赤麿)が霊山を崇拝中に奇瑞(きずい)を得、その麓に寺を建て、神願寺と称し、翌年、若狭彦姫神(わかさひこのひめがみ)を迎え神仏両道の寺としたと伝える。 鎌倉初期、若狭彦神社を造営して別当寺となり、神宮寺と改称、盛時は25坊を有したという。

 神宮寺は、奈良東大寺修二会(お水取り)の「お水送りの寺」として知られる。 二月堂下の若狭井の水源は下根来(ねごり)の鵜之瀬(うのせ)であるとされ、3月2日には送水(そうずい)神事が行われる。 下根来八幡社で山八(やまはち)神事を行い、ついで神宮寺で修験者の修二会、達陀(だったん)(内護摩(ないごま))行法、神宮寺住職が鵜之瀬の淵で水切り神事を行って送水文を読み、清めた御香水を筒から遠敷川(おにゅうがわ)に注ぎ込む。 この水は10日かけて東大寺二月堂下の若狭井に湧くと伝えられている。

「等々力短信」千号、加藤秀俊さんの励まし2023/11/10 06:59

「等々力短信」が1000号に達した時、友人5人が発起人となり、2009年7月4日、表参道の青山ダイヤモンドホールで、「『等々力短信』1,000号を祝う会」を開いてもらった。 64名の方々(私ども夫婦以外に)が参加してくださって、温かくて、楽しい、なんとも濃密な二時間を、経験することになった。 ずっと「書き手は三流だけれど、読者は一流」と言ってきた。 お集まりの大先輩、諸先生方、同期のお仲間、後輩、それぞれ、社会的に立派なお仕事をなさってきた方ばかりだ。 それが私のような、落語に出てくる「世の中をついでに生きているような人」の「読者」ということで、お気の毒にも十把一からげにされて、ここにいらっしゃる、と言って、こんな挨拶をした。 沢山の方が「継続は力なり」と言ってくださったけれど、つまらないことを書いていても、千回続けておりますと、これだけの皆様が集まって下さる。 「継続は力なり」の「力」は、人を集める「力」だったんですね、と。

 この会のために、私は「等々力短信 1000号の歩み」と「「等々力短信」千号によせて」の二冊の小冊子を用意した。 前者は1000号の目次と短い内容、後者は読者から頂いたご感想のアンケートをまとめたものだった。 それは私を励まし力づける過褒ともいえる数々のお言葉であり、おかげで「等々力短信」を現在1172号まで続けてこられたといってもよいほどだ。

その中には、加藤秀俊さんのご感想もあったので、引かせていただく。

「    ひとりで黙々と             加藤 秀俊

「等々力短信」の編集人、発行人、そして執筆者である馬場さんを知ったのはインターネット以前の「パソコン通信」時代のことであった。したがって、面識はほとんどない、といってもよい。それにもかかわらず、この人物を深く知り、「短信」を愛読しているのは、かれが短文の名手であり、同時に福沢研究の第一人者であるからだ。わたしなどが軽率に知っていた福沢のさまざまな側面や挿話を「短信」によってどれだけ教えられたかわからない。ひとりで黙々と「短信」を1000号まで書き上げてきたこの風変わりで実直な人物に縁あってめぐりあうことができたのは人生の快事であった。うれしいことである。」