小泉信三さん関係、拙稿一覧(その1)2024/03/01 07:15

 小泉信三さんについて、私が今まで書いていた「等々力短信」とブログをリストにしておきたい(長いので、全4回の予定)。

     「等々力短信」
第521号 1990.2.5. SEVENTEEN/小泉信三賞佳作・伴典子さん、ボブ・グリーン『十七歳』(『五の日の手紙 2』244頁)
第563号 1991.4.15. 訂正二件/五島美術館の大こぶし・福沢諭吉全集完成祝賀会(『五の日の手紙 3』48頁。鬼のおかげ、「松永安左エ門」<小人閑居日記 2015.10.15.>、訂正二件〔昔、書いた福沢50〕<小人閑居日記 2019.4.23.>)
第564号 1991.4.25. 五十にして/福沢全集祝賀会での小泉信三スピーチ(『五の日の手紙 3』50頁。訂正、土橋俊一先生のご指摘で<小人閑居日記 2015.10.18.>、『福澤諭吉全集』完成記念会<小人閑居日記 2015.10.19.>、五十にして〔昔、書いた福沢51〕<小人閑居日記 2019.4.24.>)
第621号 1992.12.5.『わが文芸談』(〔昔、書いた福沢56〕<小人閑居日記 2019.5.22.>)
第781号 1997.8.15. 戦争を語り継ぐ/白井厚編『大学とアジア太平洋戦争』(『五の日の手紙 4』204頁)
 第892号 2000.10.15. 左手の手紙/追悼・土橋俊一先生①、「短信」の良き読者(<小人閑居日記・2015.10.18.~19.>)
第893号 2000.10.25. 校正畏(おそ)るべし/②小泉信三・吉田小五郎、後進を褒める手紙
第935号 2004.1.25. 『岩波茂雄への手紙』(『岩波茂雄への手紙』と苦難の時代<小人閑居日記 2006.10.11.>)
第1023号 2011.5.25. 熱海の雪崩(「熱海の雪崩」考<小人閑居日記 2024.2.29.>)
第1172号 2023.10.25.(10.21.発信) 小泉信三さんの「鏡花と滝太郎」

     <小人閑居日記>
「慶応の留学生」など<小人閑居日記 2002.8.27.>(河盛好蔵『藤村(島崎藤村)のパリ』(新潮社))
『言海』出版祝賀会序列問題<小人閑居日記 2002.9.30.>
第168回福沢先生誕生記念会<小人閑居日記 2003.1.10.>(松崎欣一さんの記念講演「草稿・演説・演説記録-福沢先生の「演説」」、小泉信三賞全国高校生小論文コンテスト受賞者・志木高3名)
「東西いろはがるた」<小人閑居日記 2003.2.12.>(鶴見俊輔『新版 アメリカ哲学』福沢はプラグマティックな哲人、小泉信三「福沢諭吉の人と書翰」)
橋本五郎さんの福沢入門<小人閑居日記 2003.10.1.>(福沢諭吉協会土曜セミナー「ジャーナリストにとっての福沢諭吉」、兄は小泉信三さんを通じての福沢ファン)
三田で筑紫哲也さんの「多事争論」を聴く<小人閑居日記 2004.6.23.>(小泉信三記念講座)
徳川時代の人は背が低かった<小人閑居日記 2004.7.17.>(小泉信三記念講座、速水融さん「徳川日本への新しい視角」)
福沢長崎遊学150年(その1)<小人閑居日記 2004.10.19.>(「福澤先生留学址 昭和十二丁丑年 小泉信三撰並書」の石碑)
慶應日吉キャンパスの連合艦隊司令部<小人閑居日記 2005.6.30.>(小泉信三塾長に廃学危機を回避しての、国策協力と戦争遂行協力)
「海行かば」の早慶戦<小人閑居日記 2006.5.13.>(「小泉信三博士歿後40年記念講演会」服部禮次郎さん「小泉博士と福澤研究」、福岡正夫名誉教授「経済学者小泉信三」、松尾俊治さん「小泉信三先生と野球」)
アマチュア、そして総合人間学<小人閑居日記 2006.5.20.>(「福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会」丸山徹さん「小泉信三と作家たち」)
情感と風情、「述ベテ作ラズ」<小人閑居日記 2006.5.21.>
小泉信三さんとファールボール<小人閑居日記 2006.5.22.>
『三田評論』小泉信三追悼号<小人閑居日記 2006.5.23.>(『三田評論』「小泉信三君 没後40年」特集号)
前田祐吉監督の慶應野球<小人閑居日記 2006.5.24.>
伊藤整と小泉信三さん<小人閑居日記 2006.5.26.>
柘榴坂の写真は、綱坂(?)<小人閑居日記 2006.5.28.>(空襲時の小泉邸)
『清富の思想』、遊びのすすめ<小人閑居日記 2006.8.24.>(小泉信三記念講座、塩澤修平経済学部長)
「遊び心」で世のため人のため<小人閑居日記 2006.8.25.>
福澤諭吉協会の土曜セミナー<小人閑居日記 2006.10.7.>(竹田行之さんの『小泉信三と岩波茂雄、小林勇』)
小泉信三と岩波茂雄<小人閑居日記 2006.10.8.>
小泉信三と小林勇<小人閑居日記 2006.10.9.>
福沢著作の検閲<小人閑居日記 2006.10.10.>
『岩波茂雄への手紙』と苦難の時代<小人閑居日記 2006.10.11.>
谷中の朝倉彫塑館で<小人閑居日記 2006.11.5.>(「平和来」の像)
三田の戦没学生記念碑<小人閑居日記 2006.11.11.>
小泉信三賞・山下聖秀君の論文<小人閑居日記 2007.1.19.>(全国高校生小論文コンテスト)
山下聖秀君の論文を読んで<小人閑居日記 2007.1.20.>
早慶戦中止事件での高橋誠一郎先生<小人閑居日記 2007.6.19.>(高橋誠一郎歿後25年記念講演会、鳥居泰彦さん「高橋文部大臣と教育基本法」)
高橋誠一郎文部大臣と『帝室論』<小人閑居日記 2007.6.20.>
日本史上最大の事件と慶應義塾<小人閑居日記 2007.7.10.>(三田演説会、白井厚慶應義塾大学名誉教授「アジア太平洋戦争下の慶應義塾―故きを温ねて新しきを知ろう―」)
戦時下の慶應、小泉信三塾長<小人閑居日記 2007.7.11.>
戦時下、大学に出来なかったこと<小人閑居日記 2007.7.12.>
手料理とシューベルトと<小人閑居日記 2007.8.6.>(小泉信三記念講座、小此木政夫法学部長の「北朝鮮核問題と日本外交」) 
体制「生き残り」のための核<小人閑居日記 2007.8.7.>
北朝鮮の核に対するアメリカの政策の変遷<小人閑居日記 2007.8.8.>
北朝鮮核問題、日本の戦略<小人閑居日記 2007.8.9.>
「反復」と「巨大な量」から宇宙をつかむ<小人閑居日記 2007.12.4.>(小泉信三記念講座、鷲見(すみ)洋一さんの講演「百科全書」)
『百科全書』とは<小人閑居日記 2007.12.5.>
『百科全書』の本文と図版<小人閑居日記 2007.12.6.>
今でも複式簿記を採用しない公会計<小人閑居日記 2008.1.17.>(小泉信三賞全国高校生小論文コンテスト、石原克己君の「『帳合之法』の精神を、現代に再び」)
「小泉信三展」の若き実動部隊<小人閑居日記 2008.5.14.>
小泉信三さん、お人柄の形成<小人閑居日記 2008.5.15.>(「生誕120年記念 小泉信三展」)
「小泉信三展」で印象に残ったもの<小人閑居日記 2008.5.16.>
御田(みた)小学校のこと<小人閑居日記 2008.5.17.>
塩澤修平経済学部長にとっての小泉先生<小人閑居日記 2008.5.18.>(福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会「慶應ボーイ小泉信三 気品の泉源・智徳の模範の体現者」)
小泉信三さんは典型的「慶應ボーイ」<小人閑居日記 2008.5.19.>
文運の進展~慶應義塾創立百年記念式典<小人閑居日記 2008.5.20.>(小泉信三塾員代表の祝辞)
閑(レイジュア)とその使い方<小人閑居日記 2008.5.28.>(創立150年記念セミナー「英国に学ぶ」、山内慶太看護医療学部教授の「福澤先生の英国体験」)
慶應義塾創立150年記念式典、天皇陛下の「おことば」<小人閑居日記  2008. 11.11.>
創立100年記念式典での昭和天皇の「お言葉」など<小人閑居日記 2008. 11.12.>(小泉信三塾員代表の祝辞)

「熱海の雪崩」考2024/02/29 07:09

 小泉信三さんについて、私が今まで書いたものの一覧を出そうと思っている。 その中で、ネットのブログで読めないものの一つに、この等々力短信「熱海の雪崩」があった。 興味深い話なので、「マクラ」として再録しておく。

        等々力短信 第1023号 2011(平成23)年5月25日                       熱海の雪崩

 「熱海の雪崩」が、ずっと気にかかっていた。 『慶應義塾史事典』のVII「社中の人びと」の「阿部泰蔵」の項目にある。 阿部泰蔵は、三河国下吉田(現愛知県新城市)生れ、慶應4(1868)年に福沢の塾に入り、明治2(1869)年には慶應義塾の教員となり、その年3か月ほど塾長も務めた。 当時は当番制、交代で塾長に任じたものだったそうだ。 福沢門下生の保険事業を実行しようという動きの中、その中核として阿部に白羽の矢が立ち、明治4(1871)年7月、日本最初の生命保険会社明治生命の創業者となる。 水上滝太郎(阿部章蔵)が四男なのは、小泉信三の著作でよく知られている。

 私の引っ掛かっていた記述は、「(大正)八年熱海温泉に逗留中、雪崩の被害に遭い瀕死の重傷を負う。以後自宅で療養、一三年一〇月二二日没、享年七五。」 温暖な熱海に雪は降ることはあったとしても、雪崩があったのだろうか、ということだった。

 5月16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会で三田に行き、次の予定まで一時間ほどの時間があったので、卒業以来40数年ぶりに図書館に入った。 塾員(卒業生)は、慶應カードで入れてくれる。 レファレンス・カウンターで尋ねて、『慶應義塾史事典』の参考文献にあった明治生命保険相互会社編『本邦生命保険創業者 阿部泰蔵伝』(1971年)を、地下2階の書庫で探し出す。 第一三章 終焉 一「奇禍に遭う」に、当時明治生命大阪支店副長だった阿部章蔵の、後年の追憶が引用されている。

「大正八年二月、父は鈴木旅館に入湯中、雪崩(なだれ=ルビ)の為に浴室の天井の厚硝子が砕け、大腿部を深く剥(えぐ)られてあやふく即死せんとし、爾来六年間病床を離れる事が出来ず、晩年を苦痛のうちに終った。」 おそらく、これが『慶應義塾史事典』の、基だろう。 『水上滝太郎全集』十二巻13-4頁の引用とあったので、カウンターで見覚えたKOSMOSの端末を叩いて、地下3階にあった現物を読む。 その時、『水上滝太郎全集』の端に立っていた「補遺・年譜・索引」の袋を一緒に手にしたのがヒットだった。 年譜「大正八年(三十三歳)」「二月三日、父泰蔵、熱海温泉鈴木旅館に於て、入浴中、積雪の為玻璃窓砕け大腿部に重傷、爾来六年間病床を離れ得ざるに至る」。 「雪崩」よりも「積雪」で天井のガラスが割れたという方が、妥当ではなかろうか。

 気象庁お天気相談所と、そこから回された静岡気象台防災業務課にも電話してみたが、大正8(1919)年2月3日(福沢諭吉命日)の熱海の積雪の記録は確認できなかった。

東宮御教育参与、「人の疾苦を思う」2024/02/27 07:15

「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」では、戦後の小泉信三を、昭和21(1946)年の東宮御教育参与就任から、皇太子のご成婚までで扱った。 そこで「疾苦」、「人の疾苦を思う」という言葉が出てきた。

 大日本帝国憲法の天皇は、神聖にして侵すべからず、国の元首にして統治権を総攬する、と定められていた。 戦後の日本国憲法では、天皇は日本国および日本国民統合の象徴とされた。 「象徴」としての天皇はどうあるべきか、昭和25(1950)年、学習院高等科2年の皇太子への進講をはじめるにあたり、小泉信三は「御進講覚書」をまとめた。

 皇太子に対し「今日の日本と日本の皇室の御位置およびその責任」ということをお考え願いたいと述べたという。 昭和天皇は大元帥であり、先の大戦の開戦について責任がないとは言い切れない。 だが戦争には敗れたものの民心は皇室を離れなかった、その理由の大半は「陛下の御君徳による」とした。

「殿下に於て、よくよくこの君徳といふことについてお考へになり、皇太子として、将来の君主としての責任を御反省になることは、殿下の些かも怠る可からざる義務であることを、よくお考へにならねばなりませぬ。」

 「君主の人格、その識見は、自ら国の政治によくも悪しくも影響するものであり、殿下の御勉強と修養とは、日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし。」

 「注意すべき行儀作法/気品とディグニチィ(威厳)は間然すべきなし(批判の余地がない)/To pay attention to others(他の人々には注意を払うこと)/人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言うこと/Good manner(良き礼儀)の模範たれ。」

 小泉信三は、昭和27(1952)年11月10日の成年式と立太子礼に際し、世の君主たり皇子たるものの第一の義務は人の疾苦を思うにあること、人は人に仕えることによってはじめて真に仕えられる資格を得ることを、強い確信として御体得なさるであろうと記した。

 小泉は、正田美智子さんの皇太子妃選定にも、皇太子妃教育にもかかわった。 「人の疾苦を思う」皇室という考えは、皇太子妃にも伝わり、皇后としてのなされように表れたのだった。 「等々力短信」1118号 2019.4.25.「皇后美智子さまの御歌」に、こんな歌を引いていた。

 かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ(平成7年)  ありし日のふと続くかに思ほゆる このさつき日(び)を君は居まさす (昭和42年・小泉信三さんの一周忌)

等々力短信 第1176号は…2024/02/25 08:13

<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>元禄地震 房総沖巨大地震と大津波 は、2月12日にアップしました。 2月12日をご覧ください。

柳沢吉保の評価、将軍綱吉の評価につながる2024/02/23 06:55

 柳沢吉保の評価が二分されるという問題だが、以前、家内の同級生の奥様、川口祥子さんの「柳沢吉保と六義園」という講演を聴いて、いろいろ書いていた。 その川口祥子さんだが、残念ながら2022年11月30日に亡くなられて、『源氏物語』などの古典に関する深い学識にふれることができなくなってしまった。

「柳沢吉保と六義園」のお話を聞く前に<小人閑居日記 2018.10.9.>
和歌浦、和歌三神、そして和歌山の地名の由来<小人閑居日記 2018.10.10.>
「古今伝授」北村季吟→柳沢吉保、「六義園」<小人閑居日記 2018.10.11.>
柳沢吉保と五代将軍綱吉<小人閑居日記 2018.10.12.>

 改めて、それらや、そこにリストを挙げている「六義園」について書いたものなどを読むと、柳沢吉保の評価が二分されることは、吉保が仕えた五代将軍徳川綱吉の評価が二分されることにも、つながっていた。

2月12日に発信した、元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>に書いた、柳沢吉保の出世ぶりについては、柳沢吉保と五代将軍綱吉<小人閑居日記 2018.10.12.>にくわしく書いていた。 古山豊さんの本によって記した、吉保生母きの女、その二度の再嫁と、そこで産んだ子供や、荻生徂徠との関わりについては、ウィキペディアなどにも記述がないけれど、八木書店の史料纂集古記録編『楽只堂年録』を校訂している宮川葉子さん(元淑徳大学教授)のコラム「柳澤吉保を知る」第5回吉保の側室達(一)飯塚染子で確認することができた。 柳沢吉保の公用日記『楽只堂年録』は、元々柳沢家には『静寿堂家譜』と呼ぶ公用日記があったのだが、火災で焼失したため、荻生徂徠が史料を博捜、再編したものだった。
https://company.books-yagi.co.jp/archives/7610