「駿河大納言事件」 ― 2006/02/24 08:03
関ヶ原から二十年経った、安藤氏時代の高崎で「駿河大納言事件」が起こる。 駿河大納言とは、二代将軍徳川秀忠の次男(三男?)忠長、甲斐、駿河、遠江五 十五万石の大大名だった。 三代将軍になった秀忠の長男家光とその幕僚は、 政権不安定を恐れ、目障りな忠長を、いろいろと画策したあげく、高崎に蟄居 させた。 そして忠長を可愛がっていた秀忠と母が死ぬと、城主安藤重長に切 腹させることを命じ、察した忠長は高崎城で自害した。
この悲劇の遠因は、両親が長男より、次男を溺愛したことによる、将軍後継 争いにあった。 秀忠夫人は、織田信長の妹・お市の方と浅井長政の娘(崇源院)。 妻に頭の上がらなかった将軍秀忠も、成長遅れの長男竹千代(家光)より、聡明 な次男国松(忠長)を愛し、次期将軍にと考えたが、長男の家臣たちはまだ大御 所として睨みを利かせていた家康に泣きつき「長男竹千代が後継」と決めても らった。 竹千代指名は取り巻きの強い工作の結果だったが、その代表格が春 日局。 織田信長に謀反を起した明智光秀の家来齊藤利三の娘お福である。 利 三は捕えられて処刑、お福は苦労をした末に稲葉正成の後妻になったが離別し て大奥に入り、竹千代の乳母になった。 家康の側室お勝に取り入って伸し上 がり、竹千代を後継にと家康に直訴し目的を達した。 この一連の関係を見る と、明智一族の怨念を感じると、堤さんは言う。 まさに大河ドラマの世界で ある。
徳川忠長の墓は、高崎市の大信寺にあり、市の指定史蹟。 五輪塔で、石垣 や石扉には葵の紋が彫ってあるが、日光東照宮の家光の墓、大猷院廟とは「月 とスッポン」だと堤さんは書いている。 堤家の墓とは、背中合わせなので、 子供の頃から手を合わせて育ったが、父上から「家光が死ぬまで墓を造らせず、 出来てからも鎖で繋がれていた」と聞かされ、酷いことをするものだと思って いたそうだ。
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