福沢の積極性、英学と外国行き2006/10/26 07:46

 河北展生さんの「幕末10年間の学塾経営の苦心談」の続き。 演説館で聴 いてきたことを確認して補記するのに、固有名詞や年号などは、『福翁自伝』や 『福澤諭吉書簡集』の註や富田正文先生の『考証 福澤諭吉』を、参考にしてい る。  安政6年、福沢は開港された横浜に行き、オランダ語の通じないのを知り、 英語に切り換える。 河北さんは、この積極性を強調する。 教えてもらおう とする人が忙しすぎ、字引を買ってもらって、字引頼りの独学を始める。 咸 臨丸渡航のニュースを聞き、桂川家のつてで、木村摂津守に頼み込み、アメリ カに行く。 サンフランシスコで『華英通語』や英語の字引を買って来る。 英 語の勉強は進んだが、本で読んでも、ヨーロッパの様子でわからないことがあ る。 どこかでゆっくり訊いてみたいものだと思っていた。 当時の外交文書 には、原文に漢訳文と蘭訳文を必ずつけるキマリになっていた。 これをネタ に勉強ができるから、幕府の外国奉行の翻訳方に勤める。 こういう福沢の人 物を見込んだ藩の上士江戸定府用人土岐太郎八が、病気だったのを、娘を嫁に やると遺言を書き、文久元年冬、異例の階層違いの結婚をする。 築地鉄砲洲 から芝新銭座(浜松町のところ)の借家に転居したのは、身分違いを珍しがっ た藩士が覗きにきたりするといけないという福沢の配慮もあったと、河北さん はいう。 (昨日の岡見彦三は江戸藩邸留守居役の由)

 その文久元年12月から、文久2年いっぱいをかけて、幕府の遣欧使節の一 員としてヨーロッパへ行く。 字引や本で読んでもわからなくて、調べてきた いことがどんなことなのか、もう福沢には決まっていた。 英語もかなり上達 していた。 特にロンドンに45日間滞在したのが効果的で、これはと思う人 に質問して、郵便、議会、病院その他たくさんのことを理解した。 とりわけ、 ヨーロッパとの格差は学校教育に原因があるのではないかということを発見し たのが大きいと、河北さんは指摘する。 藩の用人島津祐太郎(すけたろう) 宛、文久2年4月11日(1862.5.9.)付のロンドンからの書簡に、積極的に西 洋文明を取り入れての大変革、富国強兵のためには洋学による人物の養成が必 要で、江戸で頂戴した仕度金は残らず書籍を買い、玩物一品も持ち帰らない覚 悟だと、書き送っている。