「慶應義塾」の出発2006/10/28 07:59

 私のブログを当初は読んだけれど「長すぎて読み疲れました。今は、“読み方 止め!”と自分に命令を出しています。」というメールが来た。 反省。 反省 しつつも、自分の備忘録のようなものだからと、河北展生さんの講演の最後の ところを続ける。

 藩の力を借りずに、私立の学校を作るとなると、お金がかかる。 福沢がこ の時期から、横浜で発行される新聞等を翻訳して、諸藩に売ったりして、お金 を貯めた。 外国語の本、教科書を貸してもらえることは、塾生にとって、た いへんな魅力だった。 小幡篤次郎ら6人の俊秀が塾生の中核になるとともに、 福沢の塾の名声があがり、諸方からの入門者も増え、五間続きの長屋の塾舎も 手狭になり、紀州藩は中津藩中屋敷内の奥に藩が費用を負担して塾舎を建て、 慶應2年小泉信吉ら9名が一度に入塾した。

 攘夷の嵐が吹き荒れ、洋学者が生命の危険にさらされる中、ひたすら執筆に 努めた『西洋事情』初編三冊を世に問うと、福沢はもはや一介の中津藩士でも 幕府の雇われ翻訳係でもなかった。 わが国における最高の新知識として一躍 海内に文名を轟かす人物になったのである、と富田正文先生は『考証 福澤諭吉』 に書いている。

 慶應4年、いよいよ戊辰戦争が始まろうかという時期に、前年末に買い入れ た芝新銭座の有馬という大名の土地400坪に塾舎を新築、移転、慶應義塾とし て出発するのだ。 この有馬というのは越前丸岡藩で、外様大名ながら譜代か ら養子をとって老中になり、参勤交代制度変更の命令を出したが、老中を辞め て不用になった土地を手放したと、河北さんはいう。 福沢はここに、経済的 にも、経営的にも苦労をして、日本が今後採用すべき洋学校を、みずからの理 想にかられて、出発させたのであった。