偏奇館の焼亡2009/03/29 06:58

 麻布市兵衛町二丁目、今の六本木一丁目にあった永井荷風の偏奇館が焼失し たのは、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲によるもので、9日の『断 腸亭日乗』に「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す」とある。  枕元の窓が火の光で明るくなり、隣人の叫び声がただならぬものに驚いて、荷 風は「日誌と草稿を入れたる手革包」を提げて庭に出た。 それほど日誌は大 事だったし、それによって今日『断腸亭日乗』を読むことが出来るのだ。

 長垂坂中ほどに起こった火は、たちまち市兵衛町二丁目表通りに延焼し、谷 町辺りにも火の手が上がるのが見えた。 火星(ひのこ)は烈風に舞い、入り 乱れて庭に落ちてくる。 荷風は周囲を見回し、とうてい禍を免れることは出 来ないと覚って、三田聖坂の木戸氏の邸に行こうと考える。 角の交番で訊け ば、我善坊から飯倉へ行く道は、仙石山神谷町辺りが焼けつつあるので、行く ことが難しいという。 永坂へ行くのも、途中に火がある。 荷風は山谷町の 横町から霊南坂上に出て、スペイン公使館側の空き地で休む。 「下弦の繊月 凄然として愛宕山の方に昇るを見る」と、燃えさかる町の中で月を眺める余裕 さえあった。

 荷風は、風の方向と火の手を見計り、逃げるべき道の方角をほぼ知ることが出来ると、26年間住み慣れた偏奇館の焼き倒れる様を、「心の行くかぎり眺め飽かさむもの」と思い、戻ろうとする。 しかし、隣の外人宅の樫の木と、自 分の庭の椎の木が燃え上がり、黒煙の風に渦巻き吹きつけて来たために、近づ けない。 ただ火焔の更に一段と激しく空に上るのを見ただけだった。 これ は偏奇館楼上の少なからぬ蔵書が一時に燃え上がったためだとわかったという。  一連のことを、荷風は感情を交えずに、驚くほど冷静に記録している。