江と徳川秀忠の次男・国松(忠長)その後2011/10/15 04:27

 大河ドラマ『江』、2日と9日放送の「最強の乳母」と「運命の対面」を、続 けて見ていた。 江は、竹千代のあと、国松を産み、和(まさ)を産む。 和は、 のちに後水尾天皇の中宮となり、明正(めいしょう)天皇(女帝)の母となる。 家 人が「国松は、あとでどうなったの?」と聞く。 私は「亀屋万年堂の社長に なったんだよ」と答えた。

 そこで思い出したのは、文化地理研究会の二年後輩で、高崎城主御家老の十 三代目、堤克政(よしまさ)さん著『ちょんまげ時代の高崎』(あさを社・2009 年)である。 国松(堤さんの本では国千代とも)は徳川忠長となり、高崎で死ん だ。 その墓は、高崎市の大信寺にあるが、堤家の墓と背中合わせだという。  『ちょんまげ時代の高崎』、まだ新聞コラムに連載中の2006年、2月22日か ら28日まで七回にわたって<小人閑居日記>で紹介させてもらったことがあ った。 高崎城主御家老の十三代目/高崎の殿様たち/「駿河大納言事件」/ 大河内家と、その家老・堤家/余談『柳生十兵衛七番勝負』/徳川幕府初期の 政権争いと高崎/野火止の平林寺、松平源朝臣墓。

 「駿河大納言事件」とは、国松(国千代)、徳川忠長の事件なので、前に書い たものを引く。 関ヶ原から二十年経った、安藤氏時代の高崎で「駿河大納言 事件」が起こる。 駿河大納言とは、二代将軍徳川秀忠の次男(側室の子を数え ると三男)忠長、甲斐、駿河、遠江五十五万石の大大名だった。 三代将軍にな った秀忠の長男家光とその幕僚は、政権不安定を恐れ、目障りな忠長を、いろ いろと画策したあげく、高崎に蟄居させた。 そして忠長を可愛がっていた秀 忠と母(つまり江)が死ぬと、城主安藤重長に切腹させることを命じ、察した忠 長は高崎城で自害した。

 この悲劇の遠因は、両親が長男より、次男を溺愛したことによる、将軍後継 争いにあった。 秀忠夫人(江)は、織田信長の妹・お市の方と浅井長政の娘(崇 源院)。 妻に頭の上がらなかった将軍秀忠も、成長遅れの長男竹千代(家光)よ り、聡明な次男国松(国千代・忠長)を愛し、次期将軍にと考えたが、長男の家 臣たちはまだ大御所として睨みを利かせていた家康に泣きつき「長男竹千代が 後継」と決めてもらった。 竹千代指名は取り巻きの強い工作の結果だったが、 その代表格が春日局。 織田信長に謀反を起した明智光秀の家来齊藤利三の娘 お福である。 利三は捕えられて処刑、お福は苦労をした末に稲葉正成の後妻 になったが離別して大奥に入り、竹千代の乳母になった。 家康の側室お勝に 取り入って伸し上がり、竹千代を後継にと家康に直訴し目的を達した。 この 一連の関係を見ると、明智一族の怨念を感じると、堤さんは言う。 まさに大 河ドラマの世界である(と、私は2006年に書いていた)。

 徳川忠長の墓は、高崎市の大信寺にあり、市の指定史蹟。 五輪塔で、石垣 や石扉には葵の紋が彫ってあるが、日光東照宮の家光の墓、大猷院廟とは「月 とスッポン」だと堤さんは書いている。 堤家の墓とは、背中合わせなので、 子供の頃から手を合わせて育ったが、父上から「家光が死ぬまで墓を造らせず、 出来てからも鎖で繋がれていた」と聞かされ、酷いことをするものだと思って いたそうだ。