佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ2014/02/02 07:46

 佐藤允彦さん、慶應高校の一年生の時から、毎日放課後、銀座のキャバレー へ通っていたという。 ピアノは小さい頃から弾いていて、慶應普通部時代は 音楽学校へ進む勉強もした。 父上の事業が傾いて、何かしなければならない。  母上が時代はジャズだろうという。 ピアノを弾いていたら、煙突掃除の人が 聞いて、ジャズのアレンジをする先生を紹介してくれた。 その先生が、銀座 のキャバレーへ連れて行って、バンドの演奏を見学していなさいと言った。 一 年通ったら、バンドが交代して、たまたまそこにピアニストがいなかった。 高 校一年生から、稼いでいた。 予習復習は出来ないから、授業は懸命に聴いた という。 そんな苦労を、同級生は全く知らなかったようだ。 大学卒業後、 米国バークリー音楽院に留学して、作曲と編曲を学ぶ。

 佐藤允彦さん、たいへんな落語好きらしい。 志ん生の「火焔太鼓」、円生の 「正札附」、文楽の「野崎」など、噺家の出囃子を、メドレーのジャズにした。  それを『江戸戯楽』というCDにしている。 佐藤さんの本『一拍遅れの一番 乗り』(2002年/スパイス・カンパニー刊)には、「落語とジャズの粋な関係」 という一文がある。 ジャズ・ミュージシャンには落語好きが多く、噺家の師 匠連にはジャズ通が多い。 佐藤さんは、落語とジャズの共通項を考えて、「庶 民の芸能」、「即興性」、「紅灯街」(ジャズはニューオーリンズの紅灯街ストーリ ーヴィルで生れ、禁酒法時代のジャズはギャングの庇護のもと、シカゴやカン ザスシティーのもぐり酒場やナイトクラブで育った)、「粋」(落語もジャズも、 伝承のなかで洗練されてきた)を列挙する。 そして、「鰍沢(かじかざわ)」 「黄金餅」「死神」「心眼」「大仏餅」など、いわば落語のスタンダードナンバー を多く残した三遊亭圓朝が没したのが1900年、その世紀の変わり目に後年ジ ャズで大きな役割を果たすことになる人物が生まれているのは、何となく面白 いという。 1898年ジョージ・ガーシュイン、1899年デューク・エリントン、 1900年ルイ・アームストロング。 さらに、1950~60年代、ジヤズの黄金期 は、また落語の絶頂期でもあった、と書いているのである。