東大ボート部、銚子遠漕の青春2014/02/18 06:56

 半藤一利さんは、旧制長岡中学から昭和23(1948)年(私が小学校に入っ た年)に旧制浦和高校へ進んで、初めてオールを手にして以来、昭和28(1953) 年に東大を出るまでボート部にいて、隅田川で漕いでいたという。 もとの隅 田公園十八番地、言問団子の裏手に艇庫があって、それに隣接して合宿所があ った。 隅田川も、昭和24、25年ぐらいまでは水もきれいで、ボートを漕い でいると、ハゼやボラがポッシャーンと艇の中に飛び込んできたりした。 と ころが朝鮮戦争が始まってまもなくの、昭和25年の終りぐらいからダメにな った。 蔵前橋の西側、蔵前工業高校に山のように積まれてあった戦災の焼け トタンがあれよあれよという間に消え、戦争特需に沸く工場がどんどん出来て、 工場排水が隅田川に入ってきたそうだ。

 昨日書いた「「荒川」は人工の川だった」の続きの当日記に、2012年3月6 日「「江戸の運河」第一号・小名木川」、7日「東京の物流は「江戸の運河」の 上に」を書いていた。 その運河を使って利根川の河口、太平洋に面した銚子 まで遠漕に行く、東大ボート部の伝統行事があったそうだ。 隅田川を下って 小名木川を通って行くか、あるいは隅田川を上がって鐘ヶ淵の先の堀切の水門 をくぐって、荒川に入ってダーッと四つ木から小松川べりを下がって行く。 そ れからまた運河を通って、浦安、いまのディズニーランドがあるところへ出て、 江戸川に入り、柴又、市川と上がって行く。 野田と流山の間に、利根運河と いったか、運河があった。 今は土手が出来て堤防の上が道路になってしまっ たが、昔はそのまま通れた。 一か所だけ艇を持ち上げて、運河の向こう側へ 下ろすのだけれど、それでずうっと進むと利根川に出る。 ちょうど取手の下 あたりに出て、それから延々と坂東太郎を下がっていく。

 練習用の船で行くのだけれど、何日もかかる。 一日目は野田に泊って、二 日目に利根川を下がって佐原に泊る。 そして三日目に銚子へ向かう。 帰り がたいへんで、利根川は流れが強いのでなかなか上がれない。 帰りもたっぷ り二日がかりだった。 利根川を上って押砂というところに行くと、川沿いの 小高い丘に赤い鳥居が見えてくる。 これが神崎(こうざき)神社(千葉県香 取郡神崎町)で、境内に大木の「ナンジャモンジャの木」という御神木があっ た。 利根川にザブーンと飛び込んで水ごりをして上がり、「ナンジャモンジャ の木」の下に立つと、一人前のボートマンになれるという言い伝えが、東大ボ ート部にはあったという。