「官兵衛は神(でうす)を信じていた」2014/02/21 06:27

 『播磨灘物語』を引用したついでに、2月11日の日記に書いた、「菜の花忌」 のシンポジウムで司会の古屋和雄元NHKアナが朗読した、「藤の花房」の章の 部分を引いておきたい(講談社文庫本だと(三)巻)。 このシンポジウムだが、 4月のどこかでNHK・Eテレが放送するそうだ。 私が前に長々と書いたのに、 どれだけ間違いがあるか、試されることになる。

「(ともかくも死なずに)

と思う一念だけで、生きていた。」

「そういうときに、官兵衛のこの六尺の天地に重大な変化が発生した。 格子越しに見あげる牢のひさしに、ぽつんと薄緑色の輝くような生命がふく らみはじめてきたのである。藤の芽であった。

入牢して以来、庇のあたりには空しかなかった。おそらくこの牢屋の屋根の あたりに藤が蔓をはびこらせているのに相違なかったが、それがある夜、風の いたずらかなにかで、蔓が庇まで垂れたのであろうか。その冬枯れの白茶けた 蔓に、なんと芽が吹いたのである。世にあるときは無数の自然現象とその変化 にとりかこまれて、しかも無関心でいた。まして山野に自生する藤などに関心 が往くことなど、まずなかった。しかし、いま官兵衛の目の前にある藤の芽は、 官兵衛にとって、この天地のなかで、自分とその芽だけがただ二つの生命であ るように思われた。

その青い生きもののむこうに小さな天があり、天の光に温められつつ、伸び ることのみに余念もない感じだった。

官兵衛は、うまれてこのかた、生命というものをこれほどのつよい衝撃で感 じたことがなかった。その者は動く風のなかで光に祝われつつ、わくわくと呼 吸しているようであり、さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号 を送りつづけているようでもあった。

官兵衛は、神(でうす)を信じていた。しかしそれが神の信号であると思う 以上に、ごく自然な感動が湧きおこってしまっている。官兵衛という生きた自 然物が、他の生命から生きることをはげまされているという感じであり、その 感動が重なり重なって、そのことに馴れてから、

(これは、神(でうす)の御心ではないか)

と、解釈するようになった。解釈が成立して、官兵衛の心が落ちついた。 朝、起きると、まっさきに藤をながめた。芽はすこしずつふくらみ、小さい ながら花の房もついているようだった。それを終日、飽くことなく官兵衛はな がめつづけているのである。」

 大河ドラマ『軍師 官兵衛』は、官兵衛がクリスチャンなのを、どの程度描く のだろう。 『八重の桜』につづいて二年間、大河ドラマはクリスチャンが主 人公ということになるのだろうか。