JR北海道問題の根本原因と対策2014/02/06 06:39

 JR北海道の問題で、T君も「経営安定基金」というのがあるはずだと言って いた。 交通コンサルティング会社ライトレール社長の阿部等さんは、昨年10 月25日の朝日新聞「耕論」「北の鉄路に潜むもの」で、不祥事を糾弾するだけ では問題は解決しない、根本原因を見つめるべきだと、そのことに触れている。  1987年のJR誕生時、国は北海道、四国、九州の3島会社に計1.3兆円の「経 営安定基金」を設け、運用益で黒字化する方式を採った。 経営努力だけでは 黒字は困難という判断だ。 一方、東日本、東海、西日本の本州3社には、想 定される黒字に応じ、国鉄長期債務の一部4.6兆円を承継させた。 しかし、 金利は当時の7%超から下がる一方で、運用益は想定を大幅に下回った。 本 州3社は逆に返済金利が減り、業績向上に寄与した。 国も無策ではなく、実 質的に基金を積み増すのと同じ効果を持つ施策を実施したが、それでもJR北 海道の基金運用益は当初想定の約5百億円から2百数十億円に減っている。  赤字決算では銀行融資を引き揚げられるので、経営者は賃金を抑え、要員を削 り、投資を先延ばしせざるを得ない。 広大で厳寒の北海道の鉄路2500キロ は、現在の人員と予算で維持する限界を超えている。

 阿部等さんは、そこで提案する。 国土の均衡ある発展のため、地方交通を 大都市住民の負担で維持するのは不可欠だ。 北海道の道路も空港も港湾も、 そうして維持されているのに、なぜ鉄道にだけ単独黒字を求めるのか。 3島 会社への支援を民営化時の想定に戻すべきだ。 今後、取り得る施策の一つは 「経営安定基金」の積み増しだ。 JR本州3社から3島会社へ出資してもら い、特別に出資金の損金算入を認めて法人税を減免してはどうか。 その際、 本州3社が出資を株主に説明できるよう、政府は3島会社が順調に成長できる 基盤整備を約束しなければいけない、と。

「佐藤允彦さんのジャズ・ピアノで新年会」訂正補足2014/02/07 06:30

 新年会のことなどをブログに書いたことをお知らせした佐藤允彦さんから、 メールを頂戴して、私が分らなかったことや間違っていたところを教えて頂い たので、訂正補足しておきたい。  2月1日の日記「佐藤允彦さんのジャズ・ピアノで新年会」。 私が題名の分 らなかった曲は“This Could Be The Start Of Something Big”。 さらに、そ の作曲者Steve Allen は Ed Sullivan Show の司会者ではなく、1956年に NBCテレビが当時人気絶頂だったCBSテレビのEd Sullivan Show に対抗し て始めた The Steve Allen Show の主役、つまり Ed Sullivan の敵方だった のだそうだ。 そして、そのオープニング・テーマがこの曲“This Could Be The Start Of Something Big”で、佐藤允彦さんはその曲名が新年会にふさわしい だろうと、選んで下さったのだそうだ。 知らないということは恥ずかしく、 申し訳ない、せっかくのご配慮を感じ取ることが出来なかったわけだ。

 もう一つ、上杉亜希子さんが歌った“Time After Time”を、シンディ・ロ ーパーも歌ったと書いたが、上杉さんの歌ったのは同名異曲だったのだそうだ。  それでいつもは二曲メドレーにして“Time After Time After Time”(笑)など と言って歌っているという。

 2月2日の日記「佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ」。 佐藤允彦さ んが、銀座のキャバレーに通って耳学問していたのは、私が書いた一年間では なく、一ヶ月だったのだそうだ。 「正確には1957年12月で、大晦日に楽屋 に飛び込んできた粗忽なバンドリーダーに翌年正月4日からの仕事を押し付け られたのが、運命の分かれ道だったということになります。」と、佐藤さんはメ ールに書いて下さった。

 1957年は昭和32年(戦後12年)、確かに私も同じ高校1年生で、私はとい えば放課後、銀座のキャバレーでなく、ほど近い新橋の料亭街そばの時事印刷 という印刷所に通って、高校新聞を作っていた。 既に稼いでいた人とは大違 いだが、案外、佐藤さんと近い場所にいたのである。 仲間の一人に多少世間 を知っているのがいて、一対一になって組版などする印刷工の職人さんに、機 嫌よく付き合ってもらうため、一升壜を提げて行ったりした。

沢木耕太郎さんの司馬遼太郎賞受賞スピーチ2014/02/08 06:29

「菜の花忌」で頂いてきた「菜の花」咲く

 1日、司馬遼太郎さんの第18回「菜の花忌」(忌日は2月12日)が、文京 シビックホールであり、申し込んだ抽選に当たって、参加させてもらった。 第 一部は司馬遼太郎賞とフェローシップ(若い人への研究奨励金)の贈賞式と昨 年のフェローシップ受賞者の報告、第二部は「この時代の軍師―『播磨灘物語』 から考える」シンポジウムだった。 第17回司馬遼太郎賞は、沢木耕太郎さ んの『キャパの十字架』(文藝春秋刊)に贈られた。 沢木さんは、戦争写真家 ロバート・キャパの代表作「崩れ落ちる兵士」について、残された写真類を検 証し、現地に幾度も足を運びつつ、名作誕生の真実を解明していく。 それは 常に新しいノンフィクションの〈方法〉を探求してきた沢木さんの集大成と思 える作品であり、またスペイン内戦という歴史の一幕に新しい光を与えた点で、 現代における『街道をゆく』を彷彿とさせられる、というのが贈賞理由だった。

 沢木耕太郎さんの受賞スピーチ、けっこう長い話になった。 沢木さんは、 小学6年か中学1年の時、司馬さんを初めて読んだという。 昭和30年代の 初め、東映の時代劇映画の全盛期で、中村錦之介、東千代之介、大川橋蔵、悪 役は進藤英太郎、月形龍之介、山形勲が順列組合せで出演していた。 大川橋 蔵の『新吾十番勝負』を観てひどく感動、父親に話すと、原作がある、川口松 太郎の小説だと言う。 大田区の家のそばに貸本屋があり、それまで右側の子 供向きの漫画・本・雑誌の棚ばかりだったのを、初めて左側の大人の本や雑誌 の棚を見た。 川口松太郎の原作があり、読んだら面白かった。 その瞬間か ら左側へ行くようになり、柴田錬三郎、五味康祐など時代小説を沢山読んだ。  そんな中に司馬さんの『梟の城』があった。 厚い本で、貸本は一冊10円だ から、厚いのは得な気がして、借りて読んだ。 子供心に、これは今まで読ん だ時代小説とは違うな、と思った。 その時は、どこが違うか分らなかったが、 後で、再読して分かった。 一つは司馬さんの「向日性」、日に向かう明るさだ。  これは処女作だが、もうそれがあった。 乱波(らっぱ)・忍者が、秀吉の寝首 を掻こうと忍び込む。 これから読む人がいるかもしれないけれど、言っちゃ いますね。 寝ている秀吉が、小さいタダの老人なのを見て、馬鹿馬鹿しくな って、親愛の情までわき、主人公はクスッと笑う。 刺客がクスッと笑うなん て書いた人は、かつてないし、今もない。 子供心にも、不思議だと思った。  司馬さんの小説は、エロティックが乾いている、そこが柴田錬三郎と決定的に 違う。 『上方(ぜいろく)武士道』『風神の門』など、厚い司馬さんの本を読 み、面白いものを書く人がいる、と思った。 しかし、やがて司馬さんがつま らなくなった。 司馬さんが変って行ったのだろう。

 自分に『凍(とう)』というノン・フィクションがある。 山野井泰夫・妙子 夫妻がヒマラヤのギャチュンカンに登り、夫は単独登頂に成功するが、8千メ ートルを下降する間、夫妻は嵐や雪崩やブランコのような宙吊りなど、6日間 の過酷な状況に遭う。 凍傷で夫は両手指5本、右足指5本、妻は両手指全て を失ったものの、奇跡の生還を果たす。 この『凍』を読んだ、ある女性のブログの感想が面白いと友人が教えてくれた。 彼女はハラハラと読んで、「どう してポチが助けに来ないのか」と思ったという。 ポチは山野井夫妻がキャラ バン中に拾った迷い犬で、餌などやって可愛がるとベースキャンプまで付いて 来ていたが、ある日、突然いなくなった。 彼女は小説だと思って読んでいて、 ポチを拾った話を、伏線だと思ったのだ。

 沢木さんは、司馬さんがそうした伏線を張るフィクションの手つきや世界が、 嫌になったか、厭きたんだろうと言う。 司馬さんは、ポチがポチとして消え て行っていい世界、フィクションに近いノン・フィクションに行ったのであろ う。 ポチが助けに来なければならないと思うほうの子供には、それがつまら なくて、外国の小説を読むようになっていった。(つづく)

司馬遼太郎さんの贈り物2014/02/09 07:55

 沢木耕太郎さんの受賞スピーチは、まだ続く。 9年前「週刊百科 街道を ゆく」(朝日新聞社)にエッセイを頼まれ、「中国・蜀と雲南のみち」の雲南省 の昆明と四川省の成都へ行った。 実はそれまで中国に行っていなかった。 行 く機会はあったが、ビザが短期間しか下りなかったため、自由に旅することが できるまで待っていた。 その頃もまだ公式には三か月くらいしか下りなかっ たが、ついに中国を本格的に旅する時期が来たらしいと、香港から新疆ウイグ ル自治区のカシュガルまで、乗合バスで行くことにし、途中で昆明と成都に寄 ったのだ。 昆明でカメラマンと合流し、司馬さんが訪れたイ族の人たちが住 む高橋村(コウキョソン)へ行った。 きれいな女性に出会って、話すと、そ の人の可愛い女の子が民族衣装を着てくれ、いとこの男の子、最後にはその女 性や男の子の母まで民族衣装に着替えてくれて、大撮影大会になった。 それ を眺めていた男の子の祖父が折角だからと声をかけてくれ、一族の女性総出で 用意をして、大食事会となった。 蕎麦の実でつくった蒸パン、茹でた落花生、 朝採りの野菜、肉、どれもがおいしかったというだけでなく、一緒にテーブル を囲んだイ族の人たちの優しさ、暖かさにふれ、楽しい豊かな一日になった。  百何十日かの旅の中で、一番嬉しい日となったが、それは『街道をゆく』に導 かれなければ、決して経験することはできなかった。 司馬さんからは、本日 頂いた時計や賞金よりも、素晴らしいものをもらっていたのだった。

 「『街道をゆく』をゆく、をゆく」企画で、檮原(ゆすはら)街道についても 書くことになり、坂本龍馬の脱藩の道を土佐から伊予まで、龍馬と同じように 歩いてみることにした。 130キロを3日とちょっとかけて歩いたが、新鮮な 体験をいくつかした。 最も重要なのは、こういうものだった。 若い20代 の頃、『深夜特急』に書いた、インドのデリーからロンドンまで、乗合バスの旅 をした。 途中二回船には乗ったが、イスタンブール、パリを経る、地続きの 旅で、世界の大きさが身体でわかったのが、最大の収穫だった。 吉田松陰も、 坂本龍馬も、江戸、京都、博多と、よく歩いた。 檮原街道130キロを歩いて、 この距離感、時間の「ものさし」が、僕の身体の中につくられた。 日本の土 地の長さ、自分の歩く距離感を得たのも、司馬さんの大きなプレゼントだった。

 この正月、『風神の門』と『梟の城』を再読して、面白かった。 無頼で女性 ともいろいろあって、パッと亡くなったイラストレーターの小島武が、若い時 に「いつか時代小説を書くなら、挿し絵を描くからな」と言っていたのを思い 出した。 そうだ、時代小説を書いてみようかな、と思った。 面白いものが 書けたら、もう一度司馬遼太郎賞の候補にして頂き、二度司馬遼太郎賞をもら ったとして、歴史に名を留める人になりたい。

『播磨灘物語』の黒田官兵衛2014/02/10 06:40

 「菜の花忌」第二部のシンポジウムは「この時代の軍師―『播磨灘物語』か ら考える」、パネリストは磯田道史、松本健一、諸田玲子、和田竜の皆さんで、 司会は古屋和雄元NHKアナ。 まだ読んだことない和田さん以外は、私の愛 読する書き手で、それが参加申し込みの理由でもあった。

 『播磨灘物語』は、今年の大河ドラマでもやっている黒田官兵衛孝高が主人公だ。  磯田さん…官兵衛は司馬さんと似たDNAを持った人だったのではないか、 出身地が同じこともあり、司馬さんは相当の思い入れをもって書いている。  「知性が残虐を避ける物語」、戦国時代に官兵衛がいたことは日本人にとってよ かった。 戦う時、必ず逃げ道をつくり、寒いから引き返すというようなこと をする、官兵衛のお蔭で助かった人は多い。 歌詠みから武人になった人、自 分も戦場から帰った司馬さんは、そんな官兵衛を書きたかったのではないか。 

諸田さん…「あとがき」に友人するなら官兵衛とあるが、夫に、恋人にするな ら官兵衛を選びたい。 司馬さんの『関ヶ原』を読んで、戦国時代を書こうと 思った。 『播磨灘物語』、人間が追い詰められたとき、どう生き延びるかが描 かれていて、すばらしい。 司馬さんは、人は美しく生きなくて何なんだ、「官 兵衛ほど、五彩のステンド・グラスのような華麗な世界を持っていた男はすく ないであろう」と書いているが、祖父、父、そして荒木村重の牢獄が官兵衛を つくった。

 和田竜さん…自分の名前は、母が竜馬が好きで、馬を抜いた。 官兵衛は現 代人みたいな人だ、人の心を察することができ、それを行動に移す、目上にも 目下にも同じように接する、今の人が好むような人だ。 そんな人が乱世に放 り込まれて、悪戦苦闘する、ドラマチックな人生だ。

 松本さん…司馬さんの傑作は、ナンバー・ツウが輝いた時、筆が動く。 『燃 えよ剣』の土方歳三、『竜馬がゆく』竜馬も維新の三勳(西郷・木戸・大久保) の次、『坂の上の雲』の秋山真之。 官兵衛は、秀吉を天下人にした。 ナンバ ー・ワンになろうという野望と、やればできるという覇気を持っている。 秀 吉が、俺が死んだら官兵衛だろう、と言う。 それを聞いて、官兵衛は危ない と思う。 下手をすれば潰される、アワを食って隠居して如水となる。 九州 を抑えて、駆け上がろうとするが、関ヶ原が一日で終ってしまい、家康が天下 人になると、平定した九州を家康に譲ってしまう。