市馬の「三十石」後半2014/10/11 06:47

 板を渡して、船に乗り込む。 お土産(みや)に、「あんぽんたん」いかがど すか。 おちり(ちり紙)いりまへんか。 「あんぽんたん」とは何だ。 か き餅をふくらませて、砂糖をかけたもので。 おちりは、西の東院紙、浅草紙 のこと。 京は王城の地ですさかい。

 あと、御一人様、御女中での、詰めて下され。 兄弟、俺が引き受けるよ、 その御女中、24、5の小股の切れ上がった…。 膝の上に乗せて、股を割って、 抱き寄せる形で…、ほっぺたを引っ付けて、テケレッツのパ。 御女中の荷物 を先に。 はいよ、と受け取って、有難い御女中の荷物だと、みんなの頭の上 で振って、天井から吊るす。 御女中、こちらへ。 はいはい、年寄にえろう 親切にしてくれて…。 お婆さんかい。 お婆さんかて、御女中だ。 荷物を ちょっと下ろして下さい。 家の者が、ほうろくに砂入れて、シッシをするよ うに、と。 オマルかいな。 おいおい、それ頭の上で振ったぞ。 お婆さん、 まだしてないんだろ。 さっき、一遍しました。

 (大声で)出すぞーーーッ、出すぞーーーッ。 三十石船、年輩の方は広沢 虎造の「石松三十石船道中」でご存知ですが、全長五十六尺(17メートル)、 幅八尺三寸(2.5メートル)、米三十石、人間なら三十人を乗せたという。 二 丁艪に四っ人(たり)の船頭。(と、歌になる。)  ♪やれぇ、伏見中書島(ちゅうじょじま)なぁ、泥島なぁれどぉよーい、な ぜに撞木町ゃなぁー藪の中ぁーよーい、やれさよいよいよーい。(ボーーンと鐘 の音)

 よーい、よーい、豆どん、向う(上方)でおチビと言う女の子が、橋の上か ら船頭に大坂の買い物を頼む。 夕菊さんが、木村屋の簪(かんざし)二つ、 枕七つ、鬢付け買って、早よ戻ってやと、あんたの来るの待ってるでぇ。 勘 六よ、ワレのような男でも、好くおなごがあるんか、立って食う寿司も寿司寿 司って、昔から言うからな。 そりゃ、蓼食う虫も、虫、虫じゃろが。

 ♪宿の車はくるくるとよ、やれさよいよいよーい。(ボーーン)  ギイーッ、ギイーッ。 茶、くれってか、これは船頭のための茶だ。  ♪やれぇ、お月さんでもなぁー、ばくちをなさるよーい。 雲の間からなぁ、 てらぁ、てぇーらとぉよーい、やれさよいよいよーい。

 御女中、立ったら危ない。 バリ(小便)はじきなさるのか。 船縁にバリ かけると、船霊(ふなだま)様の罰が当たりますぞ。 夜の事じゃ、誰も見て おらんから、グーーンとケツ川に突き出してやりなされ。 色の白いケツや。  ドブーーン。(大太鼓) 何をしとんのじゃ、こいつ、色が白い言うて、川へは まっとる奴があるか、早う上がれ、早う上がれ。

 ♪やれぇ、奈良の大仏さんをよぉー、こ抱きに抱ぁーいてなぁー、お乳飲ま せた乳母(おんば)さんは、どんな大きな乳母さんかぁ、一度対面がしてみぃ ーたいよぉー、やれさよいよいよーい。

 市馬、会長になって快調に、たっぷりと自慢のノドを聴かせた。 「三十石」 は円生がよく演じたが、前半でスタミナを使いすぎると、船歌になって声がか すれると、語っていたように記憶していた。

「所変われば品変わる」、品の名も2014/10/12 07:16

 この日記に書こうと思ったことのメモに、「春の庭」というのがあったが、「春 の庭」って、何だっけと、考えてしまった。 柴崎友香さんの芥川賞受賞作『春 の庭』だった。 世田谷の緑道沿いの家の話だというので、読んでみる気にな って読んだのだった。 しかし、その題名「春の庭」を忘れるほどだから、あ まりピンとくるものがなかった。 ただ、そのために珍しく買った『文藝春秋』 9月号の、受賞者インタビュー「漱石の東京に憧れて」で、生まれも育ちも大 阪だという柴崎友香さんが、東京と大阪の違いについて話していることが、印 象に残った。 想像もしないことだった。

 東京に来て、食パンの薄いのに驚いたと言う。 関西だと近年は五枚切りが 主流なのだが、東京にはなくて、大阪にはない八枚切りも並んでいる。 八枚 切りは、一度に一枚だけ食べるのか、二枚食べるのか、謎だと言う。 地元の 友達に話したら、「わかった、薄いから漫画でトーストくわえたまま走ってるん や」と、言ったそうだ。

 フジテレビの朝の番組に、いろいろ調査するコーナーがあって、「ワイシャツ」 の呼び方を、やっていた。 関西ではワイシャツと言わず、「カッターシャツ」 と言うのだそうだ。 街を行く人々にインタビューして、呼び方を聞くと、み んな「カッターシャツ」と言う。 クリーニング屋さんの看板も皆、「カッター ○○○円」と書いてある。 そうなのか、ぜんぜん知らなかった。

 「カッターシャツ」という呼び名は聞いたことはあるが、どんなものかは考 えたこともなかった。 「ワイシャツ」は、ずっと「ワイシャツ」と呼んでき た。 明治になって、外人が「ホワイトシャツ」と言うのを聞いて、「ワイシャ ツ」になったそうだ。

 関西の「カッターシャツ」は、スポーツ用品の美津濃(現ミズノ)の創業者 水野利八が、大正7(1918)年に、スポーツ用シャツとして売り出した商品名 に由来するという。 「勝った」「勝った」をもじって、「カッターシャツ」と 名付けたらしい。 『広辞苑』には、「和製語。襟と袖口が縫いつけられた長袖 のシャツ。もとは運動着だが、今はワイシャツと区別なく用いる。」とある。

 それで「ワイシャツ」も『広辞苑』をみると、「(ホワイトシャツの転。「Yシ ャツ」は当て字)主に男性が背広の下に着るシャツの総称。普通、前あき・ボ タン留めで、襟、カフス付きの袖がつく。」

 ついでに『広辞苑』の「スポーツシャツ」は、「【sports shirt】運動用のシャ ツ。また、軽快な感じのシャツの総称。」

ワイシャツの袖の長さを直すのに八十年2014/10/13 06:23

 「ワイシャツ」について、まだハガキ通信だったごく初期、創刊の年の「広 尾短信」に、こんなことを書いていた。 もうすぐ40年、39年前のことにな る。

   「広尾短信」第9号  1975(昭和50)年5月15日

 湯川秀樹さんの本にある話だそうだが、少し前までの日本人はソデの長いワ イシャツを着ていた。 そういえばたくしあげたソデをおさえる変なバンドを 今でも田舎のオジサン達がしているのを見ることがある。 初めワイシャツは 西洋人の寸法のままで日本に入り、日本人の身体に合せて作ればよいことに気 が付くまでに実に八十年の歳月が必要であったというのだ。

 われわれのまわりには、こんな何でもないことで、今までやってきたことや 常識に「囚われている」ことがまだまだありそうだ。

 だれでも朝起きた時に歯を磨く、夜寝る時も磨けば上等だ。 先頃食後すぐ に歯を磨くといいということを読んで、やってみるとなるほど気持がいい。 汚 れた時にきれいにするのだから、これが一番良いに決まっている。 むし歯の 原因になる酸は、食後三分から三十分後までの間にエナメル質をとかすPH濃 度に達して活動するという。

「運動会」と「秋思」の句会2014/10/14 06:36

 9日は渋谷句会だった。 台風と台風に挟まれたけれど、予報にあった雨も 降らない夜となった。 兼題は「運動会」と「秋思」。 「秋思(しゅうし)」 は「秋に感ずる物思い」、『徒然草』にも「もののあはれは秋こそまされ」とあ る。 私が出したのは、つぎの七句。

島中が出ても小さき運動会

足袋跣足流行りし頃の運動会

木造の校舎が見守る運動会

運動会転んで走る子に優し

こぼれ萩吹き寄せられて秋淋し

銀山で栄えし町の秋あはれ

注文が焼けて来る間の秋思かな

 私が選句したのは、つぎの七句。

シスターのスプーンレース早し早し  英

校長も借り物にされ運動会      荘吉

昼からは父の来てゐる運動会     なな

流れゆく雲に委ねし秋思かな     ひろし

川あれば川を見に行く秋思かな    裕子

横顔の睫毛の長き秋思かな      裕子

遠く近く秋思の夜の音を聴く     さえ

 私の結果は、<木造の校舎が見守る運動会>と<注文が焼けて来る間の秋思 かな>を主宰が、<足袋跣足流行りし頃の運動会>と<運動会転んで走る子に 優し>を淳子さんが採ってくれた。 主宰選2句、互選2票の、計4票、お二 人のお蔭で、辛うじて救われた感じだった。

 主宰の選評。 <木造の校舎が>…「校舎見下ろす」ではどうか、「見る」に 「守る」も入るから、検討の余地がある。 <注文が焼けて>…うまい句、焼 き物は何を注文したのか、お通しが出て、酒をちびちび飲んで待つ、仕事との 狭間、その境での秋思。

 英主宰は、兼題「運動会」で、私が選句した<シスターのスプーンレース早 し早し>を始め、敢えて「運動会」の入らない句をお出しになった、と言う。  「酉の市」の「熊手」のように、季題の中から新しい季題が生まれることがあ る。 大正から昭和にかけて、たくさん新季題が出来た。 今ある季題だけに 固執していると、息が詰まりそうになることがある。 冒険をして、新しい季 題でどんどんいい句をつくっていくと、季題として認定されるものが生まれる のではないか、というお話だった。

当時の新聞による正岡子規の訃報2014/10/15 06:55

 『夏潮』9月号の課題句は「子規忌」で、選者は藤森荘吉さんだった。 そ の選評に「附録」として、子規が生きた時代にはどんな人たちがいたか、何人 かの生没年が掲げられていた。 その中に、子規の一年前1901(明治34)年 に没した福沢諭吉があり、「機会があれば、福沢諭吉の創刊した新聞『時事新報』 に子規の訃報が掲載されていたかどうか、そうであったらどんな記事であった か、目にしてみたいものだ」とあった。 さらに、「脱線のついでに、もう一つ。 手塚治虫の曽祖父は緒方洪庵の「適塾」で福沢諭吉と同期であったそうだ。一 緒に写った写真があるという」とも、あった。

 藤森荘吉さんは最近、渋谷句会に参加されている。 それを読んだ私は、9 月の句会に二つのコピーを持参した。 一つは、『時事新報』でなく、『朝日新 聞』の正岡子規の訃報。 手元にあった『朝日新聞の記事にみる 追悼録[明 治]』(朝日文庫・1997年)に出ていたもの。 明治35(1902)年9月21日 付。  「八年病蓐(びやうじよく)に在つて俳壇を革新し病重きも「墨汁一滴」 に筆を絶たず其益篤きに及んでは猶口授をもて「病牀六尺」を廃せざりし子規 子(伊予松山の人)は十九日午前一時を以て竟(つひ)に逝けり享年三十六

辞世

糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏哉

痰一斗糸瓜の水も間に合はず

をとゝひの糸瓜の水もとらざりき」

 もう一つは、私が以前「小人閑居日記」に書いた福沢と手塚治虫の曽祖父に ついての記事だった。 「『福翁自伝』の「手塚」と手塚治虫」<小人閑居日記  2005.6.15.>、「手塚治虫、祖父・曽祖父の事蹟を知る」<小人閑居日記  2005.6.16.>、「『戯曲 陽だまりの樹』」<小人閑居日記 2005.6.17.>である。  興味のある方は、ご覧下さい。 なお「一緒に写った写真」については、私は 見たことも、聞いたこともない。

 藤森荘吉さんは、今月9日の渋谷句会で、三田の慶應義塾大学図書館で調べ てヒットしたという、『時事新報』の正岡子規の訃報のコピーを下さった。  明治35(1902)年9月21日 日曜日付。 ○掻拂ひ捕へらる、○自転車遠 乗會、○彼岸 本日は彼岸の入りなり、などと並んで、それはある。

 「○正岡子規氏起たず 正岡子規氏は伊豫松山の人曾て文科大學に入りしも 二年にして業を廢し二十六年日本新聞社に入りて俳句の研鑽に勤め二十七年肺 患に罹りしも病を力めて遼東の野に到り歸來病重りて身體の自由を失ひしも尚 ほ筆を止めず病床に在る八年の久しき孜々(しゝ)として倦まず優に新派俳句 の中堅となりて俳界に貢献する所少なからざりしが去る十九日午前一時遂に起 たず享年三十六歳辭世三句あり左の如し

絲瓜咲て痰につまりし佛哉

痰一斗絲瓜の水も間に合はず

をとゝひの絲瓜の水もとらざりき」

 最初の句、「痰の」を「痰に」と誤植している、と藤森荘吉さんが下さった 18日午前子規が書き付けたという絶筆(『別冊 太陽 日本のこころ 101』 1998年春)のコピーは、表記が新聞とは微妙に違っていた。 右から、

「をとゝひのへちまの水も取らざりき

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず」。