東京美術学校入学と境遇の激変2018/05/31 07:04

 熊谷守一は、明治31(1898)年、日本画の画塾、共立美術学館に通い始め る。 次兄と住んでいた芝公園の家から本郷の画塾まで歩いて通い、まもなく 本郷に下宿した。 東京美術学校の予備校の役目も果たしていた、この塾で日 本画の基礎を一から学んだことは、のちの熊谷作品の展開に特異な影響を残し ていると、福井淳子さんは見る。 余白の扱い、線の力、描き加えていくので はなく描き汚さないという考え方など。

 守一は、東京美術学校の入学試験を受けるときになって、急に西洋画がやり たくなった。 共立美術学館の向かいにある東京帝国大学工科大学に、石膏像 がたくさんあり、知人の紹介で土曜日曜、ひとり石膏デッサンに励む。 明治 16(1883)年に廃校となった工部美術学校の創設時にフォンタネージがヨーロ ッパから直接もたらした石膏像だというのが面白い。 熊谷守一は明治33 (1900)年8月初め、東京美術学校西洋画科撰科に合格した。

 東京美術学校2年を終える夏、明治35(1902)年6月、守一は長い徒歩旅 行を企てる。 山梨県の大月から富士を巡って、故郷の岐阜県付知まで歩き、 ひと月ほど休んでから、長野から日本海に出て、日本海沿いに青森まで進み、 下北半島をぐるっと回って、太平洋に出たあと、青森県下田から汽車に乗って 東京に戻ってきた。 大変な健脚、時に汽車や馬車を使いながらも、1か月半 をかけて毎日毎日歩いている。 ところが、旅の最終日の9月7日、よれよれ の着物姿で東京・本郷西片町の父の家に帰りついた守一を待ち受けていたのは、 父・孫六郎がひと月も前の8月3日に脳卒中で死去していたという事実だった。  父との約束を守って、旅のあいだ、こまめにはがきを送り続けてはいた。 岐 阜の家族は何とか守一に連絡を取ろうとし、友人たちも手分けして東北の警察 署に聞き合わせしたりした。 しかし、旅先の守一には伝わらなかったのだ。

 父の突然の死によって、明らかになったのは、父の経営してきた事業が非常 に逼迫しているということだった。 明治33(1900)年2月には生糸市場の 大暴落があって、孫六郎の事業も大打撃を受けた。 8月には、出資していた ガラス工場も不成功に終わったのか、次兄・鋭雄も付知に引き上げていた。 父 は守一に後継として期待するところもあったのだろう。 だが、守一は付知で 墓参りをすませると、早々に新学期の始まった東京美術学校へ戻り、絵の道に 進むことを選ぶ。 資産家の息子から一転、巨額の負債を負うという熊谷の境 遇の激変に、級友たちはみな驚く。 しかし、守一は級友たちが案ずるほど動 揺を見せない、絵の道を進むという覚悟はすでに固いものだった。 長兄・銕 太郎が美術学校卒業までの授業料をともかく出してくれたのも大きな支えであ った。 守一はひとりで下宿していたのをやめ、まず、級友・和田三造、橋本 邦助と共同で入谷に下宿を借り、ついで辻永(ひさし)、柳啓助が加わって、共 同の自炊生活が始まる。 この賑やかな共同生活は、学校でも目立ち、「入谷の 五人男」と呼ばれた。

小人閑居日記 2018年5月 INDEX2018/05/31 17:35

7792 三遊亭歌太郎の「電報ちがい」後半<小人閑居日記 2018.5.1.>
7793 立川雲水の「看板のピン」まくら<小人閑居日記 2018.5.2.>
7794 立川雲水の「看板のピン」本篇<小人閑居日記 2018.5.3.>
7795 林家正蔵の「山崎屋」前半<小人閑居日記 2018.5.4.>
7796 林家正蔵の「山崎屋」後半<小人閑居日記 2018.5.5.>
7797 桂三木助の「たがや」<小人閑居日記 2018.5.6.>
7798 入船亭扇遊の「不動坊火焔」前半<小人閑居日記 2018.5.7.>
7799 入船亭扇遊の「不動坊火焔」後半<小人閑居日記 2018.5.8.>
7800 中島岳志さんの『保守と立憲』を読む<小人閑居日記 2018.5.9.>
7801 「保守」とは? 「永遠の微調整」を重視<小人閑居日記 2018.5.10.>
7802 「リベラル」とは? 安倍内閣は「保守」か?<小人閑居日記 2018.5.11.>
7803 「保守」にとっての「立憲主義」<小人閑居日記 2018.5.12.>
7804 「保守思想」、「死者と共に生きる」ことを前提<小人閑居日記 2018.5.13.>
7805 中島岳志さんの語る「保守と立憲そして死者」<小人閑居日記 2018.5.14.>
7806 「うさぎやカフェ」と文京区バス「Bーぐる」<小人閑居日記 2018.5.15.>
7807 野間記念館の「近代日本画壇の精鋭たち展」<小人閑居日記 2018.5.16.>
7808 永青文庫の「心のふるさと良寛」展<小人閑居日記 2018.5.17.>
7809 「肥後細川庭園」(旧「新江戸川公園」)<小人閑居日記 2018.5.18.>
7810 「関口芭蕉庵」とモミジの花<小人閑居日記 2018.5.19.>
7811 「子供の日」と「朴の花」の句会<小人閑居日記 2018.5.21.>
7812 秋田空港ゴー・アラウンド始末<小人閑居日記 2018.5.22.>
7813 美術に「あんべいい」秋田<小人閑居日記 2018.5.23.>
7814 木堂・犬養毅の秋田<小人閑居日記 2018.5.24.>
7815 澤木四方吉、その生涯と足跡<小人閑居日記 2018.5.25.>
短信 7816 熊谷守一と信時潔<等々力短信 第1107号 2018.5.25.>
7817 澤木四方吉を悼み父親が寄進した寺<小人閑居日記 2018.5.26.>
7818 男鹿半島の「爆裂火口」と「石焼き」<小人閑居日記 2018.5.27.>
7819 「なまはげ」、八郎潟干拓事業<小人閑居日記 2018.5.28.>
7820 井坂直幹と木都(もくと)能代<小人閑居日記 2018.5.29.>
7821 熊谷守一、一時、慶應義塾に学ぶ<小人閑居日記 2018.5.30.>
7822 東京美術学校入学と境遇の激変<小人閑居日記 2018.5.31.>