「春娘、夏は芸者で、秋は後家……」2019/03/28 07:14

 昨日の「十八番・二本締め」の題は、ほとんど意味不明だったかもしれない。 
実は、1990(平成2)年の暮、最後の「等々力短信」の号を、得意の「落語」
と「福沢」で締めたという意味であった。 そこに引用した三遊亭円生の「ま
くら」
  四季を詠みました歌に、
  春椿 夏は榎で 秋楸(ひさぎ) 冬は梓で 暮れは柊(ひいらぎ)
  この歌をもじりまして、式亭三馬という人が、
   春浮気 夏は元気で 秋ふさぎ 冬は陰気で 暮れはまごつき
  という、まことにうまいことをいったものでございますが……
だが、最近読んだ本に、昔の落語家が――
「春娘、夏は芸者で、秋は後家、冬は女郎で、暮れは女房」って、
やっていたという話が出てきた。

関容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』(文春文庫)の冒頭、「母のこと父の
こと」である。 この中村勘三郎は、2012(平成24)年12月に惜しくも亡く
なった十八代目でなく、十七代目である。 この十七代目が「もしほ」から中
村勘三郎を襲名した1950(昭和25)年正月に、8歳だった私は母と祖母に連
れられて、その披露興行を観ていた。

 十七代目は、「春娘、夏は芸者で、秋は後家、冬は女郎で、暮れは女房」を、
文字通りの「楽屋ばなし」で、こう絵解きしている。
 「つまり、春は娘と遊ぶのがいいよ、っていうわけね。春は心が浮き浮きし
ているから、相手は素人で初心(うぶ)だし、多少まどろっこしいけれど、春
永に、梅でも眺めて鶯でも聞きながらのんびり口説け、ってことでしょう。
 夏は芸者がいい、ってのは、屋形船か何かで、ねえ、涼しくっていいや。黒
の絽縮緬に帯は白の献上、という、芸者は夏姿が一番粋かもしれないね。
 秋は後家さんがいいんですとさ。秋は気持が落着いて、何となくもの悲しい
し、後家の身上話でも聞いてやってしっぽり、ってのが似合いなんでしょう。
 冬はお女郎がいい、っていうんだ。さぶいからね。面倒くさくなくていい。
北風の晩なんか、いきなり女郎の蒲団の中へもぐりこむのが手っ取り早いから
ね。
 で、暮れは女房、ってこれ、やっぱりねえ、一年中よそで勝手してきたら、
せめて暮れぐらい、女房にサービスしなくちゃ義理が悪い、ってことでしょう。
それに出かけてみても世間様は、どこも忙しがってるしね。
 しかしまあ、何にしてもうまいこと言ってるもんだと思って、これ、女遊び
の真骨頂なんじゃない?」

 十七代目中村勘三郎は、十二、三歳の頃、よく寄席通いをしたという。 母
親は、浅草の富士横丁といって、そのころ宮戸座があったすぐそばで、米(よ
ね)もとという小さな待合をやり、義太夫の師匠もしていた。 その弟子の中
に、中村種太郎……のちに歌昇から時蔵になってじきに亡くなった人がいて、
これが十七代目の父、歌六(かろく)の養子だった。 歌六はなかなか子供が
授からないので、諦めて養子をしたら、そのあとすぐに、おきよ、お葉、初代
吉右衛門、三代目時蔵と、たて続けに生れた。 あるとき、歌六がその養子の女
師匠のところに、挨拶に立ち寄って、すっかりねんごろになってしまった。 そ
れで生まれたのが十七代目、父歌六は六十一の子で、母とし(山本姓(勘九郎の「ファミリーヒストリーでは「ろく」」))はせいぜい
二十一か二、吉右衛門兄さんと同い年だから、という。 歌六は、十七代目が
生まれると波野の籍に入れ、この別宅で三人で暮していたが、大正八年五月に
七十一歳で亡くなる。 すぐに兄が引き取る話が出たが、満で九つの十七代目
を異母兄のところへやるのが可哀そうだったんだろう、母一人子一人で暮らす。 
女手一つで十七代目を育てていくには、浮世の風がきつすぎて、旦那ってもの
が必要になった。 やがて世話になったのが、田端の白梅園という料理屋を出
してた人で、この人が神田須田町で白梅亭という寄席も経営していた。 母の
ために、市川に松桃園という大きな料理屋を買ってくれた。 このおじさんが
十七代目を大変可愛がってくれて、それでしょっちゅう白梅亭に通い、三階の
事務所から高座がよく見えて、柳好、小柳枝、まだ馬の助といってた黒門町の
文楽などの、いろいろの噺を聞いたというのだ。 「妾の子」というのが、十
七代目中村勘三郎のキーワードになるのだが、それはまた明日。