妾の子、六代目菊五郎の恩 ― 2019/03/29 07:02
十七代目中村勘三郎の初舞台は七つのとき、市村座で三世中村米吉を名乗っ
た。 出し物は「花川戸噂の俎板」で長兵衛の倅長松、兄の吉右衛門が俎板の
長兵衛、六代目の菊五郎が白井権八、初舞台からちゃんと菊吉が揃っていた。
狂言半ばに口上があって、兄の吉右衛門が「えー、狂言半ば高うはございます
が、口上を申し上げます。ここに控えおりまするは、私の倅……ではない、弟
の」というと、お客様がどっと笑う。 本人は、何で笑うんだろうと、不思議
で仕方がなかった。 父の歌六は気まりが悪いのか、この興行に出ていなかっ
た。
そのうちだんだん、芝居の楽屋うちでも、妾の子、妾の子、という言葉が耳
に入るようになった。 ある時、ぼんやり考え込んでいたら、六代目のおじさ
んが、ツカツカと寄ってきて。
「米(よん)ちゃん、お前、ひがんじゃあいけないよ。俺だって実は妾の子な
んだよ。妾の子、っていうのは、かえって出世するものなんだよ」
と慰めてくれてからが、いかにも六代目らしい。あたりをちょっと見まわし
てから、あの少ししわがれ声をもっとひそめて、
「その証拠にはな、天子様を見な。畏れ多いが……お妾の子だよ」
と言うと、お家の大事でも打ち明けたみたいな顔になって、足早に向うへ行
っちゃった。
ね、たとえが大きくていいでしょう。もちろん、大正天皇様のことですよ」
六代目は、何かにつけて、十七代目中村勘三郎のことを気にかけてくれた。
六代目から教わった芸の話は、どれも大変具体的で、実用的で、理屈がよく通
ってわかりやすい。 たとえば、「惚れてる相手に物を言うときは、口見て話せ、
憎らしい相手の時は、鼻見て話せ。」 普通、人と話すときは相手の目を見て話
す、惚れた相手のときは口を見て話すと、自分の目が少し伏目になって、優し
い甘い感じになる、色っぽい。 相手の鼻を見つめて話すと、キッとした目つ
きになって、目に角が立つ。 そう言や、忠臣蔵の松の廊下で、判官は師直の
鼻をじっと見据えているものね、といった調子で。
十七代目は、六代目の娘久枝と結婚した。 十七代目は、言う。 「六代目
にはいろんなものをもらったけど、中でもおじさんが一番可愛がっていた総領
娘を、当時評判の悪いことじゃあ人後に落ちなかったぼくがもらったんだから、
大変なことだと思ってます。」 見合いのような形で、十五も年下の久枝と婚約
が決まってから、いろんな邪魔が入って、三年間結婚できなかった。 「もし
ほ」は酒癖が悪いとか、人柄がよくないとか、御注進するやつがいたけれど、
六代目も呆れて、俺も相当敵が多いが、おめえくらい敵の多いやつを俺は知ら
ねえ、なんて言いながらも、どこが気に入ったのか、大事な大事な娘を嫁にく
れた。
この親父さんの信頼がなかったら、当時泣き虫で弱虫で、何かとひがみっぽ
かった自分は、とっくにぶっ倒れていただろう。 酒に溺れて死んじゃったか
もしれない。 とにかく、人間が一人の人間を救える、ってことは、思えばす
ごいことですねえ、と十七代目中村勘三郎は語っている。
た。 出し物は「花川戸噂の俎板」で長兵衛の倅長松、兄の吉右衛門が俎板の
長兵衛、六代目の菊五郎が白井権八、初舞台からちゃんと菊吉が揃っていた。
狂言半ばに口上があって、兄の吉右衛門が「えー、狂言半ば高うはございます
が、口上を申し上げます。ここに控えおりまするは、私の倅……ではない、弟
の」というと、お客様がどっと笑う。 本人は、何で笑うんだろうと、不思議
で仕方がなかった。 父の歌六は気まりが悪いのか、この興行に出ていなかっ
た。
そのうちだんだん、芝居の楽屋うちでも、妾の子、妾の子、という言葉が耳
に入るようになった。 ある時、ぼんやり考え込んでいたら、六代目のおじさ
んが、ツカツカと寄ってきて。
「米(よん)ちゃん、お前、ひがんじゃあいけないよ。俺だって実は妾の子な
んだよ。妾の子、っていうのは、かえって出世するものなんだよ」
と慰めてくれてからが、いかにも六代目らしい。あたりをちょっと見まわし
てから、あの少ししわがれ声をもっとひそめて、
「その証拠にはな、天子様を見な。畏れ多いが……お妾の子だよ」
と言うと、お家の大事でも打ち明けたみたいな顔になって、足早に向うへ行
っちゃった。
ね、たとえが大きくていいでしょう。もちろん、大正天皇様のことですよ」
六代目は、何かにつけて、十七代目中村勘三郎のことを気にかけてくれた。
六代目から教わった芸の話は、どれも大変具体的で、実用的で、理屈がよく通
ってわかりやすい。 たとえば、「惚れてる相手に物を言うときは、口見て話せ、
憎らしい相手の時は、鼻見て話せ。」 普通、人と話すときは相手の目を見て話
す、惚れた相手のときは口を見て話すと、自分の目が少し伏目になって、優し
い甘い感じになる、色っぽい。 相手の鼻を見つめて話すと、キッとした目つ
きになって、目に角が立つ。 そう言や、忠臣蔵の松の廊下で、判官は師直の
鼻をじっと見据えているものね、といった調子で。
十七代目は、六代目の娘久枝と結婚した。 十七代目は、言う。 「六代目
にはいろんなものをもらったけど、中でもおじさんが一番可愛がっていた総領
娘を、当時評判の悪いことじゃあ人後に落ちなかったぼくがもらったんだから、
大変なことだと思ってます。」 見合いのような形で、十五も年下の久枝と婚約
が決まってから、いろんな邪魔が入って、三年間結婚できなかった。 「もし
ほ」は酒癖が悪いとか、人柄がよくないとか、御注進するやつがいたけれど、
六代目も呆れて、俺も相当敵が多いが、おめえくらい敵の多いやつを俺は知ら
ねえ、なんて言いながらも、どこが気に入ったのか、大事な大事な娘を嫁にく
れた。
この親父さんの信頼がなかったら、当時泣き虫で弱虫で、何かとひがみっぽ
かった自分は、とっくにぶっ倒れていただろう。 酒に溺れて死んじゃったか
もしれない。 とにかく、人間が一人の人間を救える、ってことは、思えばす
ごいことですねえ、と十七代目中村勘三郎は語っている。
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