父としての福沢諭吉〔昔、書いた福沢73〕2019/07/14 08:09

               父としての福沢諭吉

       <等々力短信 第754号 1996(平成8).11.5.>

 10月の土曜日の午後三回、三田へ通った。 桑原三郎先生が講師を務めら れた福沢諭吉協会主催の読書会「父としての福沢諭吉を読む」に参加させても らったからである。 旧図書館の裏に出来た北新館の会議室が会場だったの で、三田通りの「幻の門」から入った。 万事に形式にとらわれないのが慶應 義塾の風で、立派な飾りなどなく、麗々しい看板などついぞ出したことがない というので、こう呼ばれている門である。 この登りが、けっこう急だ。 三 田の山とはいうが、学生時代にはまったく感じなかったことだった。

   昭和8年堀口大學作詞の「幻の門」というカレッジソングがある。 「幻の 門こゝすぎて/叡智の丘に我等立つ/三色の旗ひらめけば/黒髪風に薫じつゝ /つどう若人一万余/空の蒼(あお)海の碧(あお)/見はるかす三田の台」 と歌う。 かつて、風に薫じさせていた黒髪も、今は幻、登り坂のきつさに気 づくのであった。

  桑原先生は、第一日に『福翁自伝』から、幼少年時代の家庭生活、父の遺風 と母の感化を、二日目は、福沢が自分の子供の誕生と幼少時代を克明に記録し た『福沢諭吉子女之伝』(『福沢諭吉全集』別巻所収)、最終日には、幼い一 太郎、捨次郎の両息に毎朝書いて与えた『ひゞのをしへ』と、アメリカに留学 した青年期の両息宛の書簡を読み説いて下さった。 福沢諭吉を敬愛してやま ぬ桑原先生の博引旁証のお話は、うかがっているだけで、心豊かになってくる ようだった。 主に小泉信三さんの著作を通じてイメージしていた「子供は福 沢のアキレス腱」「慈愛子煩悩を通り越した甘い父」という福沢の父親像も、 桑原先生によると「人間的」な、ほのぼのとした暖かいものになってくる。  私にとっては、父の死から一年、ようやく落ち着いて、父のことや、父子の関 係などを考えていた時期に重なって、とりわけ心にしみる読書会になった。

 印象深かったものを一つだけ挙げれば、アメリカ留学中の「愛児への手紙」 だ。 明治16年6月、出発前の心得に「学問ノ上達ハ第二ノ事トシテ、苟モ 身体ノ健康ヲ傷フ可ラズ」と記し、子供の進路はそれぞれの自由にまかせて (驚くほど進歩的)、一太郎は農学をやりたいようだから、それをやれ、ただ 理論よりも帰国してからすぐ実用に適するように心掛けろといっていた福沢だ ったが、父のあとを継ぎたいといってきたらしい長男一太郎への明治20年4 月13日付返書に「慶應義塾の教師又はヂレクトルとならば誠に愉快なる事に て、拙者共夫婦は死しても悦ぶ所なり」と書く。