高木兼寛と福沢〔昔、書いた福沢82〕2019/07/23 07:13

               高木兼寛と福沢

        <等々力短信 第806号 1998(平成10).5.5.>

 吉村昭さんの『白い航跡』は、素晴しい本だった。 高木兼寛が海軍の脚気 撲滅のためにひとり奮闘し、伊藤博文や明治天皇にまで直訴して、練習艦「筑 波」の遠洋航海での実験にこぎつける。 職ばかりか生命まで賭けた結果、 「ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ」の電報に接し、高木が鳴咽する くだりでは、文字がにじんだ。

 ほかにも、いろいろ教えられたり、思い出したりすることがあった。 明治 政府がドイツ医学か、イギリス医学かのいずれを採用するかで議論していた 時、福沢諭吉がイギリス医学を採用すべしと強く主張したという話も出てき た。 積ん読本だった土屋雅春さんの中公新書『医者のみた福澤諭吉』をみた ら、政府がドイツ医学の正式採用を決定したのは明治2(1869)年のこと だったという。 福沢は明治6(1873)年、塾生前田政四郎が、医者にな るため塾をやめてドイツ語を学びたいといってきたことから、イギリス式医学 を採用した慶應義塾医学所を設立した。 かつて慶應で学び、イギリス軍医ニ ュートンなどに学んで、英語とイギリス医学を身につけていた和歌山出身の松 山棟庵を、医学所の所長に迎えた。 この医学所は7年間続いたが、西南戦争 の余波を受けて塾生が激減した慶應義塾の経営危機の時、残念ながら廃止され てしまった。

 慶應義塾医学所がなくなり、失意の底にあった松山に希望の光を与えたの が、海軍病院長高木兼寛だったのである。 二人はドイツ医学一辺倒になって いる日本の医学界の現状への憂慮で一致し、病人治療を重視するイギリス医学 によって、医師を養成するため、明治14(1881)年、京橋に成医会とそ の講習所を設立する。 翌年には福沢の友人アメリカ医師シモンズらと、有楽 町に有志共立東京病院を興した。 その二つは、何回かの名称、組織の変更を 経て、今日の東京慈恵会医大とその附属病院に至る。

 脚気問題での陸軍と海軍の論争の最中、東大の緒方正規が脚気の原因は脚気 菌によるという論文を発表した時、コッホのもとで学んでいた北里柴三郎は脚 気菌など存在しないという反論文を出し、母校東大学派の顰蹙を買う。 細菌 学で業績をあげ明治25年に帰国した北里を待っていたのは、四面楚歌の環境 だった。 その北里を擁護し、私費で伝染病研究所を設立するなどの支援をし たのが、福沢諭吉だった。 福沢死後の大正5(1916)年、慶應義塾大学 医学部の創立に際し、初代医学部長に就任したのは「門下ではないが、門下生 以上の恩顧を蒙った」北里柴三郎であった。