小佐田定雄さんの「枝雀、米朝に学んだこと」2021/08/22 07:06

 西光由さんに教わって、「らじる・らじる」の聞き逃しで、ラジオ深夜便8月14日午前1時・大阪発「人ありて、街は生き」、落語作家・小佐田定雄さんの「枝雀、米朝に学んだこと」(昨年10月10日の再放送)を聴いた。

小佐田定雄さんは桂枝雀に新作をつくったのがきっかけで、「貧乏神」などを提供。 新作250本。 落語作家、専業は二人、家内(くまざわあかね)と。

コロナ禍、落語はPC配信などで若手中心に活路を開く、地方でも聴け、いつでも聴ける。 寺社や縁日でやっていた元禄に戻ったか。 1952(昭和27)年2月26日生まれ。 70年代、ラジオの深夜放送で笑福亭仁鶴(17日に84歳で亡くなった)などを聞き、寄席へ。 関西学院大学法学部政治学科1974年卒、関学で古典芸能研究会に入った。 そこで米朝と会ったら、中学時代にラジオの深夜に米朝と小松左京の番組があって、パロディのはがきを出して読んでもらっていたが、背伸びして『増鏡』(南北朝成立の歴史物語)などのパロディを出したのを覚えていてくれ、大きくなったな、と言われた。 滅びそうなお囃子の研究をして、米朝が一つ、一つ思い出してくれて、一冊の本になり、今も楽屋で使われている。

火災保険の会社員になったら、忙しい。 25歳の時、小米(こよね)だった枝雀が、繊細でナイーブなキャラからハチャメチャに変わろうとしているのが、嫌だった。 古典落語一点張りで、新作落語も嫌いだったが、まあ見てみようと新作落語会へ行った。 枝雀が「戻り糸」を演った。 新作の登場人物は現代人だと思っていたら、百姓が出てきて会話をする、時代は構わないんだと知り、可能性があると思った。 二回目に聴きに行ったら、質が落ちた。 枝雀は、週刊誌の漫画連載のようなことが落語でもできると思ってやっていた。 それで「幽霊の辻」を書いて、送る。 手拭でも貰えればと思ったが、あんた面白いから、会いましょうということになった。 「幽霊の辻」、オチはアメリカの小話だった、枝雀がやると陽気一本の人なので、陰気なものが陽気になって面白い。 多忙な会社員で作家もやる「二足の草鞋」は大変で、作家から真人間に戻ろうと思って、米朝は何でも反対する人だから、「会社辞めようと思う」と言ったら、「それもいいな」と。 13年サラリーマンやって、1987(昭和62)年、35歳で落語作家専業になった、その後33年やっている。

 米朝は、親切な人、世話焼き、せっかち、博学、オールマイティ、能も歌舞伎も文楽も詳しい。 枝雀は、真面目、いらち、凝り性、稽古の虫、一般の人は8時間働くからと8時間稽古する、電車の連結のジャバラでやっているのを見たことがある、稽古した分だけ返って来ると言っていた、生真面目でハチャメチャに憧れ、ボーーッとする稽古をしていた。 分析が大好きで、「笑いは緊張の緩和」と言った。

 米朝は、落語について、こんな洒落た芸はない、道具も衣装も何もいらない。 これほど強い芸はない。 お客さんを、催眠術にかける。 落語は、いきなり会話から入る。 枝雀は、落語は正座の芸だと言っていた。 腰掛けては駄目。 日本だけに伝わるものだ、と。