野口冨士男の小説「夜の烏」と井上啞々2021/08/25 06:53

 そこで、野口冨士男さんの小説「夜の烏」の、江東区と墨田区の境界付近にある、周囲の碁盤目と異なって、小名木川を底辺として将棋の駒の形を連想させる斜線状の道路のことである。 実はその道路は、六間堀を埋め立てた跡で、それは小名木川水門のすぐ東――現在の常盤1丁目と2丁目の境界からはじまる。 そして、ななめ右に北上していくと、森下1丁目と3丁目の境界を通過した地点で新大橋通りを横断し、すぐその先から将棋の駒の頭の部分、といっても実際の駒形よりは鋭角に右へ折れる。 その道路が江東区と墨田区の境界で、左側が墨田区だが、実際の六間堀は小名木川がここまで来たのち、やや左方へ北上して墨田区の千歳橋の付近で竪川に合流している。 将棋の駒の頭といった部分、つまり右方へむかっている掘割は五間堀となる。 その道路がバス通りの清澄通りを越えた一帯は、いま五間堀公園となっている。 五間堀の堀を埋めた跡に造成した公園だから、いわゆる鰻の寝床状に縦長だ。

 この公園のはずれあたりに、本所から深川へ入る大久保橋があって、その橋を渡ってすぐ右手に、井上啞々がころがりこんだ「お久という女の家」があった。 公園のはずれの先にある道路のむこう側に、最近できた石の鳥居の大久保稲荷がある。

 大久保稲荷の前から将棋の駒の頭部はななめに南下しはじめ、すぐ新大橋通りへ出る。 そして、すこし左にずれた向う側の交番の横を入っていくと、ドヤ街になる。 さらに、やや広い道路を越えると、ななめ右手に森下3丁目第3児童遊園という、やはり五間幅で縦長の空地があって、五間堀を埋め立てた址であることは、歴然としている。 突き当りに金網があって、さがしもとめて来た五間堀の欠片ともいうべき最末端部は、その金網のむこうにあった。 左側はモルタル造りの工場の裏側、右手は巨大な倉庫になっていて、両岸をコンクリートでかためられた堀は、くろぐろとした水がよどんだ、全長百メートルほどの、いわば溝渠で、その正面が小名木川である。 近くで聞くと、新大橋通りのほうまであった堀は、昭和30年代のなかばに埋め立てられたという。

 児童遊園とは逆に左のほうへすこし行ってさらに右に回ると、右側は浅野スレート工場で、すぐ小名木川にかかっている東深川橋の上に出る。 その橋を渡っても、小名木川に沿っている道路はない。 やむなくすこし先へ行ってから右折すると、やっと東深川橋と西深川橋の中間点へ出て、そこに張られている金網の柵越しに、さきほどの五間堀の末端部と小名木川の接点をななめ左手から見ることができた。

 「五間堀の末端部をなす溝渠は、今となってはなんのために残されているのか。私などには見当もつかない。が、そんなかたちになってもなお五間堀は辛うじて欠片をのこしているのに、井上啞々の姿はもはやほとんどすべての読者に見えなくなってしまっている。いや、それは今にはじまったことではない。」

「夜の烏……。いやだなあ」という言葉が出そうになるのを危うくねじ伏せ、野口冨士男さんは、次第に薄暗くなってきた、その五間堀の末端部を金網越しにみつめていた、という。

小説「夜の烏」は、『文藝』昭和51(1976)年11月号に掲載された。 それにしても、野口冨士男さんの考証癖は、半端ではない。 五間堀の末端部をなす溝渠は、44年経った現在、どうなっているのだろうか。 もう、埋め立てられてしまったのだろうか。

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