日本初の眼科女医、右田(みぎた)アサ2021/11/18 06:54

 藤原QOL研究所の藤原一枝先生が以前送って下さっていた医学雑誌『ミクロスコピア』(考古堂書店)の、2008年夏号(25巻2号)を再びたまたま他の物と一緒に送って下さった。 パラパラやっていると、西條敏美さん(県立徳島中央高等学校教諭)の「28歳で没した日本初の眼科女医 右田(みぎた)アサ(1871~1898)」が眼に入った。 「科学者のふるさとを訪ねる 第9回」で、東京都北区田端である。

 右田アサは、明治4(1871)年、寺井孫一郎の長女として島根県益田市に生まれ、明治10(1877)年、7歳のとき、右田隆庸(たかつね)の養女となる。 名家右田家の没落しかけた家運を回復しようと、明治20(1887)年、17歳で上京、辛苦をなめながらも2年後の明治22(1889)年、当時例外的に女子を受け入れていた済生学舎という医学校に入学した。 後に女子のための医学校を創設した吉岡弥生と同じ年に生まれ、同じ年に済生学舎に入学したことになる。 アサは入学したその年、医術開業前期試験に合格、4年後の明治26(1893)年23歳で、晴れて後期試験にも合格した。

 開業試験に合格した後、さらに外科を専攻したが、将来のことも考えて、明治28(1895)年25歳の時、眼科の大家井上達也に師事して、眼科も修めた。 ここに日本初の眼科女医が誕生した。 アサが達也の井上眼科病院を訪れたのは5月20日のことで、翌日から通学生として眼科の修業が始まった。 そのとき達也は円熟した48歳で、彼の右に出るものはなかった。 10日ほど通学した後、6月2日には入塾した。 ところが翌月15日、達也は落馬事故がもとで急逝した。 アサは翌年3月まで井上眼科病院に留まり修業を続けたが、4月には、静岡の復明館という病院に招かれて勤務した。

 その後アサは、達也の養子、達七郎がヨーロッパ留学から帰るのを知り、再び井上眼科病院に戻り、眼科の奥義を究めんとしていた。 そんなアサであったが、肺結核に冒され、明治31(1898)年、東京で28年の短い生涯を閉じた。 ドイツ留学を前にしての、無念の最期だった、という。

 井上眼科病院と復明館眼科医院の関係を示すものというのは、以上の記述だが、明治28(1895)年と言えば、復明館では丸尾興堂の時代で、その頃から井上達也と丸尾興堂の付き合いがあったのだろう。 井上達也が48歳で急逝していたことは、丸尾晉が47歳で死んだ時、井上達二には深く同情するものがあったのではないかと思われた。

本井英俳句日記2020『二十三世』<等々力短信 第1149号 2021(令和3).11.25.>2021/11/18 18:13

 2020年1月の短信は「お正月の「俳句日記」」、俳句誌『夏潮』主宰の本井英先生が2年前に告知された「咽頭癌」、その後の合併症からも快復され、ふらんす堂のホームページで「俳句日記」の連載を開始されたのを紹介した。 その病もすっかり治癒され、「俳句日記」一年分がこの度『二十三世』という文庫本よりやや大きな、手に馴染む、素敵な装幀の単行本になった。 書名「二十三世」は、2019(令和元)年8月、先生が大磯町からの委嘱で、元禄の大淀三千風から数えて二十三代目の「大磯鴫立庵」の庵主に就任されたことに因む。 12月30日<庵主としてなすべきことも年の内>

 11月14日<酒断てば桜鍋にも足向かず>。 7月16日「病気の主たる原因であった「酒」を止めて二年半。甘いものが好きになったのは仕方ないとして、見境なく手が出るのは少々格好が悪い。」 スーパーのレジ脇の和菓子にひょいと手を出し、奥様が眉を顰める、昔は絶対にしなかった。 7月13日<良くできし妻夏痩もせざるなり>

 5月11日<川蜻蛉見てゐるおのが息の音> 季題を長時間観察するのは、写生の極意だといつも教わる。 9月15日「塩辛蜻蛉」は全部オス、「麦藁蜻蛉」は全部メス。 5月14日、ともかく生物界では「メス」の方が偉い、黒鯛、生まれた時は全部オス、「ちんちん」と呼ぶ、それが育って「カイズ」、4年くらい生き延びるとやっと「黒鯛」と呼ばれるまでになり、みんなメスになる。 子孫を残す大役はメスになった黒鯛にしか任されていないのだ。 『二十三世』、知らなかったことが多く、勉強になる。

 5月21日<ディンギーや起きる練習くりかへし>、湘南ボーイの先生、釣りも包丁を持つのもお手の物だ。 よく切れる包丁というのは洵に気持ちの良いもので、鎌倉の研ぎ屋さんから包丁が戻るときにはちょっとわくわくする、とある。

 4月17日<競漕や橋潜るとき迅かりし>、久々にテニスコートへ、ご老人がにわかに破顔一笑されて「エイちゃん!」とのたもう。 かれこれ6、70年前に鎌倉山でご近所だった方だ。 つづけて「イタズラ坊主だったよ、ねえ」と。 4月9日<新校舎のガラスが光る風が光る>、昭和33年鎌倉から三田の中等部に通うことになった。 真っ黒に日焼けしていたので、担任のK先生が「クロイワルイコ」と呼んだ。 黒岩涙香のもじりとは、知るよしもなかったが、このK先生の三年間(それ以降も)によって、本井先生の人格のおよその部分が形作られた、かけがえのない恩師である、という。

 季題の句をどう詠めばよいのか、毎日楽しく読ませて頂いていたのだけれど、いざ自分で俳句を詠むとなると、なかなか思うようにいかない。 8月21日ご推薦の「鼻うがい」の器具を取り寄せ、今も続けているのが、唯一の成果かもしれない。