碑文谷の工場のその後2021/11/28 07:16

 先日、漱石と井上眼科でコメントをつけて頂いた福島一生さんは、芝の海岸寄り、田町駅の東口近くで、会社を経営しておられるのだが、「等々力短信」第1050号 に「打たれても前へ前へ出る男」を書いた時にもメールを下さった。 「田町駅東口近くの東京ガス大敷地(現在大工事中)に、昔、私の知人が「馬場アンプルの研究所」の看板があったと言っていたのを思い出しました。田町にも工場か、研究所があったのでしょうか?」というのだった。

 これも「多少盛んな時期」のことで、「馬場アンプル」は、ガスの大口需要家だったので、東京ガスの好意と研究の意味もあり、ガスタンクの下にガラスの窯を築いて、都市ガスでガラスを溶融する実験をしていたことがあった。 ガスタンクから直接だから、ガスはいくらでも使えたのだろう。 当時まだ、ガラスの窯は石炭で融かしていた(石油になるのは昭和35年頃)。

 零細企業の経営だから、子供の頃から、銀行の支店長、手形割引、信用保証協会、担保、印鑑証明などという言葉を聞いて育った。 大量のアンプル需要に応えて「盛ん」だったのだが、納入先がほとんど三共一社に集中していたことが、禍となった。 仕入れが大量になった三共が、自社でアンプルを生産することに決め、買収に乗り出したのである。 昭和29(1954)年、中学に入った頃だった、高校生の兄と二人(弟は小学校に入ったばかり)、父の前に呼ばれ、会社が大変なことになっているので、今までのように学校へやれるかわからない、そのつもりで覚悟をしてくれと言われた。 父は、目黒の工場を手放し(早い話が追い出され)、小松川で原材料のガラス管を製造していた工場だけにして、化粧壜の製造も始め、小型電球材料を商っていた部門の営業と事務を中延の自宅でやることにした。 そして、学校云々の話は、幸いなことに、そのまま続けることができたのだった。

 目黒の碑文谷清水町の工場は、昭和29(1954)年7月21日に三共の100%子会社、目黒アンプル株式会社となった。 時期もはっきりしたのは、クオリテックファーマ株式会社のホームページの沿革を見たからだ。 目黒アンプルは、医薬品の小分け包装も始めて、昭和49(1974)年に目黒化工株式会社となり、滋賀工場、静岡工場を竣工、平成10(2007)年3月ロート製薬の完全子会社となり、平成26(2014)年クオリテックファーマ株式会社に社名変更している(本社は浜松町の汐留ビルにある)。 目黒の土地は、平成10(2007)年6月に、医薬品・医療機器の物流を業とするアルフレッサ株式会社の目黒医薬品センターになったようだ。