鴫立庵周辺を吟行2021/12/01 07:05

 本井英先生に案内されて、まず、島崎藤村の旧居へ。 東海道、国道一号線の先には、雪をかぶった白い富士がどんと、大きな姿を見せて、道路に覆いかぶさっている。 寒くなるという予報で、厚着して出かけてきたが、暖かい日となり、さらに大磯が避寒の地であることを、家々にレモンの生っているのを見て、身に沁みて知る。 藤村旧居、以前来た時より、よく整備されていた。 藤村は昭和16年1月の大磯の伝統行事・左義長を見に来て、温暖な気候が気に入り、春から昭和18年8月に71歳で亡くなるまで、ここで過ごした。

 大磯町の観光への力の入れようは、つぎに行った明治記念大磯邸園(明治150年関連施策として国、県と連携)でも感じた。 陸奥宗光と大隈重信の別邸(後に古河別邸)部分は整備済みで公開されているが、伊藤博文→李王家、西園寺公望→池田成彬の別邸部分は、まだ整備中で未公開だ。 そういえば、王子の古河庭園も、陸奥宗光邸だったと、本井先生がおっしゃる。 何か聞いたことがあった、陸奥の次男潤吉が古河家の養嗣子になったとパンフレットにあった。 大隈重信の別邸は、明治34(1901)年に古河市兵衛(古河財閥創業者)に売却されたという。

前に大磯でバスに乗った時、「統監道(とうかんどう)」という停留所があった。 藤村旧居から明治記念大磯邸園へ行くのに、統監道を通った。 伊藤博文が初代朝鮮統監の時、東小磯の大磯駅から西小磯に抜ける道をつくるのに尽力したので「統監道」なのだという。 伊藤博文別邸は滄浪閣と名付けられ、その楼上からの絶景を、伊藤は「大磯小磯の景色と問へば沖の鴎に富士の雪」と詠んだそうだ。

 東海道の松並木、3人でも抱えられるかどうかという太い木もあり、「ケロマツ」という札がついていた。 急ぎ鴫立庵に戻る。 鴫立庵は、鴫立沢といわれている清らかな小流れにかかった石橋を渡って、門をくぐると、元禄8(1695)年に、紀行家で俳諧師の初代庵主大淀三千風が建て、その後改修が加えられたという「鴫立庵室」があり、その奥に三千風入庵後約70年を経て再興した際増築した「俳諧道場」がある。 どちらも萱葺の建物だ。 京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧道場と言われている。 庵内には、三千風の建てた、西行を祀った厚い萱葺の「円位堂」、新吉原から寄進された季題「虎ヶ雨」の虎の像を安置した「法虎堂」があり、歴代庵主の墓や句碑など、80以上もの石造物がある。 句会の前に、狸が出たのを、英先生がご覧になった。 帰りがけ、女性スタッフのサンダルをくわえて縁の下に入ったと聞いた。

俳諧道場・鴫立庵での句会2021/12/02 07:15

 急ぎ弁当を食べて、「鴫立庵室」で句会となる。 私が出したのは、次の七句。
  オミクロン来ぬ間の吟行冬の凪
  おだやかな冬の木洩れ日円位堂
  萱葺の庵の句会白障子
  三千はおろか七句も秋の暮
  あたたかや福翁すゝめし避寒の地
  藤村の旧居水仙活けてあり
  三ッ尋の大ケロ松の冬天へ

 私が選句したのは、次の七句。
  日向ぼこ尻を叩いて去りにけり      たから
  山茶花や漬物石の如き墓         かおる
  人影の付かず離れず浜小春        次郎
  大磯の冬やレモンも色づきて        英
  冬の蠅としたしむことも庵主吾       英
  冬日向けふはも書庫を開けはなち     英
  冬凪の彼方や利島疣のごと         英

 私の結果。 <おだやかな冬の木洩れ日円位堂>を一舟さん、<あたたかや福翁すゝめし避寒の地>を伸次さん、<藤村の旧居水仙活けてあり>を英先生、次郎さん、かおるさんが採ってくれた。 英先生選一句、互選四票、計五票とちょぼちょぼの結果であった。 庵主英先生の句を、四句も選句していたのが、手柄といえば手柄であろうか。

 英先生の<藤村の旧居水仙活けてあり>選評。 静かな句。 この静けさは島崎藤村という作家の晩年を詠んでいるのかもしれない、一輪挿しの水仙。 今は読む人も少なく、その生活はののしられることもある。 『破戒』の出版の際には、赤壁の家(雨村・神津猛)に泣きついた。

『夏潮』季題ばなし「海水浴」2021/12/03 06:58

11月30日に枇杷の会の鴫立庵句会で、福沢先生の「大磯の恩人」という文章の話をしたと書いたが、「等々力短信」715号1995.8.15.「大磯の恩人」は、ブログの、大磯の恩人〔昔、書いた福沢68〕<小人閑居日記 2019.6.23.>で読んでいただけるけれど、『夏潮』に二年間連載させて頂いた「季題ばなし」2011年7月号「海水浴」、2012年6月号「虎ヶ雨」はブログには出していない。 それで、ここに引かせていただくことにする。

       季題ばなし(第十二回) 『夏潮』2011年7月号
           「海水浴」                   馬場紘二

 「潮浴(シホアビ)のことである」と、『ホトトギス新歳時記』第三版は、まず言う。「海水浴」は、今や誰もが「カイスイヨク」と読むだろうが、明治の中期まで「ウミミズアユミ」と読み、波打ち際で身体に波を当てて皮膚や病弱な体を鍛える、いわゆる潮湯治(シホタウジ)として親しまれていた民間療法だったのだそうだ(畔柳昭雄著『海水浴と日本人』中央公論新社)。『ホトトギス新歳時記』は続いて「夏の暑さをしのぎ、また健康のため盛んに行なわれる。子供たちや若者にとっては、もっとも楽しい夏の遊びである」と記す。畔柳さんは、次第に「カイスイヨク」と読まれるようになり、この遊泳や余暇活動の色彩を帯びるのは、明治二十一年頃からだと述べている。

 福沢諭吉に「大磯の恩人」という一文がある(『福澤諭吉全集』第二十巻)。福沢が避寒によく訪れていた大磯の旅館松仙閣の主人に渡したものだ。明治初期の医者、松本順(良順)が、大磯は海水浴・避寒の適地だと説いて、この地が日本最初の海水浴場、別荘地になったことを忘れるなと説く。それで昭和四年、共に福沢門下の鈴木梅四郎・文、犬養毅・題字の「松本先生 頌徳碑」が建てられた。「西行祭」の鴫立庵からも程近い、旧東海道・国道一号線さざれ石のバス停から海岸へ出た所に、大きなオベリスクの碑がある。

 『海水浴と日本人』は、近代海水浴の始祖として三人の名前を挙げる。長与専斎、後藤新平、松本順だ。長与は初代衛生局長として、明治十四年六月『内務省衛生局雑誌』で「海水浴説」の特集を組んだ。それを読んだ後藤は、かねて尾張の大野浦で経験、観察した潮湯治の効用を『海水効用論 附海浜療法』という啓蒙書にした。松本順は、明治十年の西南戦争中から、自身リウマチを患って苦しみ、庄内の鶴岡に近い海岸の湯野浜温泉で塩湯に浸かり、二週間ほど療養してよい結果を得る体験をした。それでリウマチ療養の相談を受けた親友に、播州舞子浜での海水浴を勧めたところ、治療効果が出たので、本格的に海水浴の普及に取り組む。明治十二年に軍医総監を退任してからは、全国各地に出向き、海水浴の適地を探し歩く。明治十七年、松本はかつて早稲田に開いた医学校蘭疇舎の門下生、大磯で開業している鈴木柳斉を訪ねた。鈴木が案内してくれた照ヶ崎海岸を見て、松本は、そのすぐれた地勢、きれいな海水や美しい砂浜、周囲の山並みに、この地こそ、長年望んでいた海水浴場の適地であると、確信したのである。

山を手にのせて波間のゆあみかな  正岡子規

朝花火海水浴の人出かな      高浜虚子

いたづらに縞の太しや海水著    久保田万太郎

『夏潮』季題ばなし「虎ヶ雨」2021/12/04 07:04

       季題ばなし(第二十三回) 『夏潮』2012年6月号
             「虎ヶ雨」                    馬場紘二

 陰暦五月二十八日に降る雨。「虎ヶ涙雨」ともいう。この日は曾我兄弟が討たれた日で、兄十郎祐成(スケナリ)の愛人であった大磯の遊女虎御前がその死を悼んで流した涙が雨となって降るという伝説に基づく。

曾我祐成は、鎌倉初期の武士(一一七二生)。伊豆の豪族河津祐泰の子で、幼名は一万、十郎と称した。五歳の時に父が他人の所領争いのとばっちりで工藤祐経に殺された。母満江が曾我祐信に再嫁し、曾我姓を名のる。弟五郎時致(トキムネ) (一一七四生)と共に、建久四(一一九三)年五月二十八日源頼朝が富士の裾野で催した狩りに、夜陰に乗じて忍び込み、父の仇工藤祐経を討つことはできたが、十郎は斬り死にし、五郎は捕えられ処刑された。この「曾我兄弟の仇討」は「曾我物語」に叙述され、「曾我物」と呼ばれる幸若・能・浄瑠璃・歌舞伎などの好題材になっている。江戸歌舞伎では、享保ごろから毎年正月興行に「曽我物」を出すのが恒例となっており、今年も国立劇場で市川染五郎の十郎、中村福助の虎、河竹黙阿弥作『奴凧廓(サトノ)春風』幸四郎・染五郎・金太郎(小学一年生)高麗屋三代出演の、正月らしいおめでたく楽しい舞台を観る機会があった。

そこで虎御前であるが、『吾妻鏡』にも出て来ることから、実在したとされる。『吾妻鏡』には、仇討事件後の六月一日、曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して尋問したが、無罪だったため放免したこと、六月十八日に虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて、出家し、信濃善光寺に赴いたが、その時十九歳であったとある。『曾我物語』では、十郎祐成と五郎時致は早くから父の仇を討とうと思っていたので、妻を娶ることを考えていなかったが、五郎の勧めもあり妾を持つことになった十郎は、自分が死んだ後のことを考え、遊女を選んだという。虎と十郎は会ってすぐ恋に落ちる。虎十七歳、十郎二十歳のことであった。十郎の死後、兄弟の母満江を曾我の里に訪ねた後、箱根に登り箱根権現社の別当の手で出家する。信濃善光寺に詣でた後、大磯に戻り、高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し、夫の供養に明け暮れる日々を過ごしたことが、山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺荘巌寺の「荘巌寺虎御前縁起」に記されているそうだ。

広重の東海道五十三次之内「大磯」は「虎ヶ雨」、国貞の美人東海道「大磯の圖」は雨に降られる虎御前を描いている。

大磯のはれてをかしや乕が雨    正岡子規
藻汐草焼けば降るなり虎が雨    高浜虚子
大磯の山いと靑く虎が雨       久保田万太郎

“湘南”の名称発祥の地「鴫立庵」2021/12/05 07:29

 そもそも「鴫立庵」とは、というのをパンフレットから紹介しておく。 平安時代末期の歌人・西行法師が、大磯周辺の海岸を吟遊して、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という名高い歌を詠んだ。 江戸時代初期の1664(寛文4)年に小田原の崇雪(そうせつ)が石仏の五智如来像をこの地に運び、草庵を結んだ。 その際、西行のこの歌にちなみ、鴫立沢の標石を建てた。 崇雪は鴫立沢の景色を、中国湖南省の洞庭湖に注ぐ湘江の南方一帯“湘南”の美しい景色と重ねて、鴫立沢の標石に「著盡湘南清絶地」(読み…ああ、しょうなんせいぜつのち、意味…清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所)と刻んだため、“湘南”の名称発祥の地として伝えられている。  「湘南ボーイ」の本井英先生が、第二十三代の「鴫立庵」庵主に就任されたのは、まさに適任と言わなければなるまい。

 ついでに、今まで大磯について「小人閑居日記」に書いたものを、リストしておく。
快適充実の大磯散歩<小人閑居日記 2005.8.2.>
馬翁、大磯の高麗山に登る<小人閑居日記 2007.5.3.>
高麗山の由来と手打ち蕎麦屋<小人閑居日記 2007.5.4.>
堀文子さんの大磯高麗山とホルトノキ<小人閑居日記 2007.10.9.>
松本良順の洋式病院「早稲田蘭疇医院」<小人閑居日記 2017.7.14.>
「大磯の恩人」松本順<小人閑居日記 2017.7.15.>
大磯の「松本順の頌徳碑」と妙大寺のお墓<小人閑居日記 2017.7.16.>
再建された旧吉田茂邸を見学<小人閑居日記 2017.8.2.>
旧三井別邸地区と「めしや“大磯港”」<小人閑居日記 2017.8.3.>
大磯の恩人〔昔、書いた福沢68〕<小人閑居日記 2019.6.23.>