福沢諭吉のジョークの鼓吹―『開口笑話』2021/12/24 07:04

飯沢匡さんの『武器としての笑い』の「ジョークの鼓吹―『開口笑話』の重要性」にある『開口笑話』についても、書いていたのを再録する。

ジョークをひろめようとした福沢諭吉の失敗〔昔、書いた福沢29〕<小人閑居日記 2019.3.9.>

            広尾短信 58 1976(昭和51).10.5.

 ジョークをひとつ、題は「記憶をよくする法」。 わしもだんだん年をとって記憶の悪くなったのには困るよ/先生、それはすぐに直す方法があります/どんな方法かね/私に五億円貸してごらんなさい。

 「欧米を漫遊して帰国すると日本では一夕の宴に小噺を語る人が少ないことに気がつく」とは加藤周一さんの感想だが、外人に「今、日本で流行っているジョークを教えて下さい」といわれて喜劇一筋の飯沢匡さんでさえ狼狽するというのだから、欧米での社交術の重要部分をなすジョークが、日本でどれだけ無視されてきたかがわかる。

 飯沢さんの発見によると明治二十年代に早くもこの風潮に気付いた福沢諭吉は、長男一太郎訳で『開口笑話』という英和対訳のジョーク集を出して啓蒙に乗り出した。 それが失敗したのは今日ごらんの通り。 冒頭のは全集二十巻所収の福沢諭吉訳のジョークをほんの少し現代風にアレンジしてみた。

 (註・1976(昭和51)年は、2月にロッキード事件が発覚、7月27日事件当時の首相だった田中角栄が逮捕された。)

    万年の春〔昔、書いた福沢39〕<小人閑居日記 2019.3.20.>

    万年の春<等々力短信 第479号 1988.(昭和63).11.15.>

飯沢匡さんの福沢諭吉論で、私が共感している第一点は、福沢のユーモアを高く買っていることである。 一昨年の暮、飯沢さんは、福沢の『開口笑話』(明治25(1892)年刊)という対訳ジョーク集を発掘して、みずから現代語訳を付け出版した。(冨山房刊) 『開口笑話』は「福沢諭吉閲、(長)男一太郎翻訳」ということで出版されていたために、福沢全集にも、ごく一部しか収録されていない。 福沢の、この早い時期での、ジョークの紹介と鼓吹は、残念ながら実を結ばなかった。 儒教的精神に凝り固まった当時の識者たちに受け入れられなかったばかりでなく、今なお日本人にはジョークを楽しむ感覚が根づいていないというのが、飯沢さん、年来の主張である。 福沢諭吉のユーモア、特に漫画との深い関係については、飯沢さんの岩波新書『武器としての笑い』に詳しい。

第二は『帝室論』だ。 『異史 明治天皇伝』のなかで、飯沢さんは福沢の『帝室論』を高く評価している。 明治15(1882)年に発表された『帝室論』で、早くも福沢が今日の目で天皇を論じ、そこには「象徴天皇」の像がはっきりと浮び上っている、と指摘する。 さらには、福沢が逸早く、天皇が政治家によって政治的に利用される弊害を見越して、「帝室は政治社外のものなり」と簡潔明快に言い切った先見性に、敬服している。

『帝室論』百年だった1982(昭和57)年、等々力短信257号(吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕<小人閑居日記 2013.11.28.>参照)に、こう書いた。 「吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。 早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災の怪我がまだ治っていないからと断る。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸へ連れ込む。」

 このエピソードは、武見太郎さんの『戦前 戦中 戦後』(講談社)に書かれている。 その時、私は「帝室は政治社外のものなり」と一緒に「我が帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」と「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば、悠然として和気を催ふす可し」も、引用した。

 いま、三度目の『帝室論』の季節が、めぐってきたようである。