「漫言」は、なぜ書かれたか2021/12/23 07:05

      「漫言」は、なぜ書かれたか<小人閑居日記 2013. 3. 31.>

 「漫言」の効用。 遠藤利國さんは「漫言」の効用を、論説と漫言をワンセットにすることで、読者を増大し、影響も飛躍的に高まったとする。 漫言にすることで面白がって読んでしまう人もいただろうし、また暇や頭脳がなくて論説全体を読めなくても笑い話として聞いていれば、それで話の核心は伝わる。 福沢は「漫言」という笑いを表看板にしたコラムを通じて、コミュニケーションの新たな回路を創出したのである、と言う。

 目くらましの変化球としての「漫言」。 「不偏不党」「独立不羈」を旗印にして大上段に構えた論説一本槍だけでは喧嘩を売って歩くようなものであって、あまりに芸はない。 論説が強速球なら、「漫言」は超山なりのスローボール、あるいは目くらましの変化球である。 とくにこの時期の政府の言論規制は厳しくなる一方であったから、論の立て方も相応の対策が必要であった。 福沢の生前、発行禁止は確か二回しかなかった。 発禁と過酷な罰金は破産に追い込む為のものだった。 強速球一本槍では潰されるだけだが、言うべきことは言わねばならぬ。 そのジレンマを打開する方策の一つが「漫言」で、「笑い」という他紙に見られぬ武器だった。

 文明開化の秘密兵器、「漫言」。 当時の民衆は、権力とは無縁の世界に生きていた。 政府がどんな理想を掲げたところで、自分達には関係のない遠い世界の出来事でしかなく、万が一、自分たちの生活に関係するものであれば、表面的にはおとなしく従ってはいても、いざとなれば無言のサボタージュや反抗も辞さぬ覚悟を秘めていた。 つまり、支配する側とされる側とでは全く異なった秩序の体系があって、その双方を橋渡しする仕組みや共通言語は存在しなかった。(遠藤さんは、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)「世間師」(二)から、南河内郡磯城村の上の太子の会式の「一年一度好きなことをしてよい日」「カカヌスミ」「一夜ぼぼ」の風習のあった人々が、五箇条の御誓文「各(おのおの)その志をとげ、人心をして倦まざらしめんことを要す」によって、それが毎日自由になったと解釈したエピソードを引用紹介した。)

 この分裂した状況をどう打開するか。 それに対する福沢の答が、「漫言」だった。 福沢の「漫言」が、政府をからかったり、庶民をおちょくったり、あるいは民権論者を罵倒したり、さらには損を承知で自ら悪役を買って出たりと、じつにバラエティに富んでいるのは、支配する側とされる側の双方に橋渡しできるものがあるとすれば、さしあたっては「笑い」を武器とした「漫言」しかないと考えたからであろう、と遠藤利國さんは述べた。