福沢諭吉の「漫言」とは何か2021/12/21 07:02

 飯沢匡さんの『武器としての笑い』の「諧謔家としての福沢―戯作調の「漫言」」で扱われている「漫言」については、2013年3月23日の福澤諭吉協会の土曜セミナー、著述家で国学院大学講師の遠藤利國さんの講演「<漫言>はなぜ書かれたか」を聴いてきて、当日記に三日間書いていた。 それを、三日にわたり再録したい。

      福沢諭吉の「漫言」とは何か<小人閑居日記 2013. 3. 29.>

 23日、福澤諭吉協会の総会と土曜セミナーがあって、著述家で国学院大学講師の遠藤利國さんの講演「<漫言>はなぜ書かれたか」を聴いてきた。 とても面白く、勉強になった。 遠藤さんは、1950(昭和25)年の東京三田生れ、早稲田大学大学院博士課程修了、『教皇庁の闇の奥―キリストの代理人たち』(1993年・リブロポート)、『メディチ家の盛衰』(2000年・東洋書林)、『明治廿五年九月のほととぎす―子規見参』(2010年・未知谷)などの多くの著訳書があり、昨年7月『漫言翁 福澤諭吉―時事新報コラムに見る明治』(未知谷)を発表した。

 福沢の「漫言」については、2001(平成13)年3月25日の「等々力短信」第901号に「福沢さんの落語」と題して、書いたことがある。 『福沢諭吉年鑑27』(2000年・福沢諭吉協会)所収、谷口巖岐阜女子大学教授の論文「「漫言」のすすめ―福沢の文章一面―」を読んでのことだった。 「漫言」とは何か、その短信から該当部分を、まず引用しておく。

福沢は明治15(1882)年に『時事新報』を創刊し、それから死ぬまでの20年近くの間、ずっと今日の「社説」のような文章を書き続けた。 その量は膨大で、『福沢諭吉全集』21巻中、9巻を占めている。 その新聞論集の中に、「社説」と平行して収められている「漫言」307編に、谷口さんは注目する。 福沢は、奔放で多彩で茶目気タップリな「笑い」の文章を創造し、その戯文を楽しみながら、明るく、強靭な「笑い」の精神で、時事性の濃い社会や人事全般の問題について、論じているというのである。

 「漫言」の一例を挙げる。 創刊4日目の「妾の効能」(明治15.3.4.)英国の碩学ダーウヰン先生ひとたび世に出てより、人生の遺伝相続相似の理もますます深奥を究めるに至った。 徳川の大名家、初代は国中第一流の英雄豪傑で猪の獅子を手捕りにしたものを、四代は酒色に耽り、五代は一室に閉じ篭り、七代は疳症、八代は早世、九代目の若様は芋虫をご覧になって御目を舞わさせられるに至る。 それが十代、十五代の末世の大名にも、中々の人物が出る由縁は何ぞや。 妾の勢力、是なり。 妾なるものは、寒貧の家より出て、大家の奥に乗り込み、尋常一様ならざる馬鹿殿様の御意にかない、尋常一様ならざる周りの官女の機嫌をとり、ついに玉の輿に乗りて玉のような若様を生むものなれば、その才知けっして尋常一様の人物ではないのは明らかだ、と。

 福沢は新作落語も作っていた。 「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極楽廻り」(明治21.6.17.) 散憂亭変調 口演 としてある。 鋳掛屋の久平が死んで冥土へ行くと、かつて懇意だった遊び友達の吉蔵が、シャバのお店での帳付の特技を生かし、無給金食扶持だけながら閻魔様の帳面をつけていた。 吉蔵に話を聞き、極楽を覗かせてもらうと、大入り満員で、蓮の葉の長屋にギュウ詰めになって、みんな退屈している。 近頃、シャバで教育が始まり、人に正直の道を教えたからだという。