「奈良散歩」実忠、兜率天へ行き修二会を始める2023/07/07 07:05

 「奈良散歩」が手元にないので、本棚の司馬遼太郎『街道をゆく 人名・地名録』(朝日新聞社編・1989年)から、関係個所を読む。

 実忠(じっちゅう 生没年不詳 8世紀) 「良弁(ろうべん)が高弟たちのなかから実忠という天才をえらんで目代(もくだい。実務上の長)にし、さらに権別当(ごんのべっとう。副長官)にすることがなかったら東大寺はよほど規模のちいさなものか、あるいは中身にす(傍点)の入った寺になっていたかもしれない。良弁の魅力の一つは、実忠の才を見ぬき、庶政いっさいをかれにまかせたことである。」

 「実忠は、とくに学僧とまでは言いがたい(晩年に東大寺の学頭になったが)ひとであったかもしれない。ともかくも実務ができ、そのおもしろさに憑(つ)かれて身の衰えるのを忘れるという感じの人で、日本史上、そういう類いの最初の人物であったかとも思える。」

 「実忠の子飼いの者たちは、奇妙なはなしをその師からきいていた。実忠は若いころ、奈良から遠からぬ笠置山(京都府相楽郡笠置町)にのぼって修行していたとき、竜穴をみつけ、そこに入った。その年月日まで伝えられている。天平勝宝3年辛卯(751)10月のことである。/その洞窟に入って北へ一里ばかりゆくうちに、にわかに光の世界に入った。実忠にはすでに知識があったために、そこが兜率天(とそつてん)の内院であることがわかった。」

 「…常念観音院という処にゆくと、すでに聖衆(しょうしゅう)があつまっていて、しきりに悔過(けか)の行法を修していた。悔過とは、仏前に罪を懺悔する儀式である。行法がすすむうちに、中央に生身(しょうじん)の観世音菩薩があらわれ出たことに実忠はおどろき、聖衆のひとりに、ぜひこの行法を下界(げかい)にもちかえりたい、といった。/「それはむりだ」と、聖衆のひとりがいった。/しかし、実忠は才覚者だった。/「ここでは、行法の動作がゆるやかでございます。千べんの行法といえども、下界でそれをやるとき、走りさえすれば数を満たすことができます。人間は聖衆より劣るといえども、幸い、誠というなしがたいものが備わっております。誠をつくしてやれば、観音もまた現出してくださいましょう」/そういうやりとりがあって、実忠は、東大寺に帰ると、二月堂において修二の悔過を修しはじめたのである。」

 『新 街道をゆく「奈良散歩」』に、源頼朝が出て来た。 修二会では、二月堂内陣で練行衆が「東大寺上院修中過去帳」を読み上げる。 奈良時代から現在まで、東大寺や二月堂に関係した人々、修二会に参籠した僧侶の名前が記されている。 源頼朝は平家の焼いた東大寺大仏殿を再建したので、ひときわ大きな声で「当寺造営大施主将軍頼朝右大将」と読み上げられる。 その17人後に「青衣の女人(しょうえのにょにん)」が読み上げられる。 鎌倉時代の承元年間(1207-1211)、集慶(じゅうけい)という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、(女人禁制の)その前に青い衣の女性が現れ、「なぜ私を読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で、「青衣の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。 以来、現在もなお、読み役の練行衆は「青衣の女人」と微音で読み上げることになっていて、心得た聴衆は聞き耳を立てている。