大学入学前、田園調布周辺遺跡の研究2023/07/23 07:24

 中学を卒業した西岡秀雄は、大学受験に合格できず、浪人生活に入る。 しかし予備校に行くふりをして日比谷図書館に通い、人類学や考古学の専門書を耽読する。 国内の学術書や学会誌のほか、海外の文献は翻訳書と原文の双方を読破したという。 日比谷図書館の書籍を読み切ると、丸善で新刊の書籍を渉猟する。 その中で、慶應義塾大学で、隔年で人類学の講義を担当し、史前学を講じていた大山柏(1889-1969)の史前学こそ、自分の進む道であることに気づく。 史前学とは、大山がドイツ留学の経験をもとに構想した考古学・人類学の方法で、土器・石器の体系的分類を行った上、動植物や地質、気候などの自然環境も踏まえて、先史時代の人類全般の動向を地球規模で考えていくものだった。

 この頃、西岡は、松野正徳ら同年代の地元の友人と、田園調布周辺の遺跡の発掘を本格的に開始する。 急激に進む宅地開発の中、消滅に瀕する古墳や貝塚などの位置や広がりを把握するため実地踏査も行い、遺跡の位置を地図に落としていく。 田園調布から野毛にかけて広がる古墳群の範囲や、古墳の分布の濃淡、群としてのまとまり(群構成)を把握するために、確認した古墳に番号を付けていく作業も開始した。

 西岡たちの活動が脚光を浴びる出来事が起こった。 昭和7(1932)年2月、道路の切通しの工事中に横穴墓群が突然発見されたのだ。 下沼部汐見台横穴墓群だ。 その日、下野毛の遺物包蔵地(現、世田谷区下野毛遺跡)から帰ってきた西岡は、知らせを聞いて松野らアシスタントと現場に急行したが、既に遺構は破壊され、人骨が散乱していた。 午後10時を過ぎていたが、西岡は現場監督に掛け合い、次に横穴墓が発見されたら、立ち入り禁止にして調査をさせてくれるよう、約束を取り付ける。

 三日後、第4号横穴墓が発見され、西岡らは雨の中調査に向かう。 実測図を作成し、床面の間仕切り施設や凝灰岩の切石でできた羨門部(せんもんぶ)の石組の構造を記録したほか、7m間隔で並ぶ計20基の横穴墓の位置を確認した。 人骨の性別や年齢、頭蓋骨の長さと幅による人種の検討も試みた。 西岡は遺跡の時期を古墳時代と想定し、未盗掘で副葬品が出土しない事実に注目し、被葬者を「敗戦」で武装解除された武人と考えた。

 5か月後、西岡は上調布郷土研究会が田園調布小学校講堂で開いた講演会で「石器時代遺物と古墳遺跡」について講演した。 田園調布が数多くの貴重な遺跡を留めた「史前学博物館」のような地であること、それが宅地開発により急速に失われつつあることを訴え、遺跡の保護や案内板の設置の必要を説いた。 田園調布周辺の古墳群の範囲や群構成が、古墳の番号とともに初めて発表された。 会場には、出土した土器・石器のほか「古墳分布図」も展示された。

 これらの地図や遺物類は、翌年2月、東京市主催の大東京史蹟展覧会に出展される。 これを機に西岡は、新知見を加えて古墳番号を改め、今日「西岡〇号古墳」と呼ばれる古墳番号を確定する。

 浪人生時代の模索の中で、大山柏の史前学こそ自分の進む道と決めた西岡は、大山の人類学の講座がある慶應義塾大学を受験する。 面接試験を担当したのは、考古学に強い関心を持つ、西洋史学者の間崎万里だった。 西岡の情熱と学力を認めた間崎は、以後西岡に大きな影響を与えることになる。