慶應義塾蔵の国宝「秋草文壺」2023/07/26 07:08

 2009年の慶應義塾創立150年記念「未来をひらく 福澤諭吉展」に、慶應義塾蔵の国宝「秋草文壺」(高さ40.5センチ)が展示されていた。 昭和12(1937)年5月に西岡秀雄先生が本格的発掘調査を行った日吉キャンパス東方約600mの台地の裾、白山古墳、第六天古墳(川崎市幸区南加瀬)で、一連の考古学調査を進めていた慶應義塾が昭和17(1942)年に発見して、慶應義塾の所蔵となった。 出土地は、西岡先生らが調査した古代末から中世の墓地遺跡で、南宋の白磁壺なども出土している。 「秋草文壺」を含む蔵骨器の優秀さや中世賀勢荘(川崎市幸区、貞応3(1224)年、後白河院の第六皇女宣陽門院の所領荘園目録(島田文書)にある)との関係など、遺跡の考古学・歴史学的重要性にも特筆すべきものがあるといわれる。

 「秋草文壺」は、日本陶器を代表する名品のひとつで、昭和28(1953)年陶磁部門の国宝第一号となった。 平安時代、12世紀、渥美窯(愛知県渥美半島(田原市の大部分と、豊橋市の一部)に分布している古窯群。日本三大古窯の一つ。)の絵画文壺で、突帯と平行沈線で画された肩部を中心に、口頸部から胴部に三段の絵画文を描く。 肩部には丁寧なタッチで芒(すすき)、櫛、瓜などを一周させ、灰釉がこれらを浮き立たせている。 口頸部には、芒や蜻蛉、胴部には大柄な芒を描いて変化をつけている。 自然釉の効果もあり、全体で秋の枯れた風韻を醸し出す。

2016年5月に福澤諭吉協会の第49回福澤史蹟見学会で、青森県の弘前へ行き、「三内丸山遺跡」も見学した。 「三内丸山遺跡」における最初の発掘調査は、地元の医師で郷土史家の成田彦栄氏により昭和27年11月に行われたが、翌28年から33年にかけて、成田氏と慶應義塾の清水潤三教授との協力により四次にわたる発掘調査が行われた。 そのことは、下記に書いたが、清水潤三教授が「秋草文壺」を三田まで背負って来た人だとあった。

三内丸山遺跡の発掘と慶應義塾<小人閑居日記 2016.5.25.>

清水潤三教授は、学生時代の昭和17(1942)年に日吉キャンパス東方約800メートルの台地で発見され、一帯の考古学調査を進めていた慶應義塾の所蔵となった国宝「秋草文壺」(高さ40.5センチ)を三田まで背負って来た人で、のちに考古学教室の教授となった。 三内丸山の四次にわたる調査を、さらに大規模にしていれば、後の大発見につながったわけで、千載一遇の機会を逃すことになったのは、残念だ。 坂井達朗先生によると、当時のことを知る慶應の考古学の先生は「死に絶えた」とか。