三田で支離滅裂の話「ひとり新聞の楽しみ」をする2023/07/12 07:00

 福沢諭吉協会の小室正紀さん(慶應義塾大学名誉教授)にお誘いいただいて、9日三田キャンパスの北館の会議室で開かれた「学問の大衆化推進会議第4回公開シンポジウム」で「ひとり新聞の楽しみ」という話をさせてもらった。 持ち時間は20分に、質疑応答5分。 書くのは何とかなるのだが、話の拙いのが露呈して、ボケか認知症の疑いさえ感じるような支離滅裂の話になってしまった。 「等々力短信」のバックナンバーを15回分セットして配布させてもらったので、それでカバーしてもらうしかなかった。 自分のやっていることをずっと「個人通信」と言ってきたが、小室正紀さんと相談して、分かりやすい「ひとり新聞」を選んでもらったのだった。 それに関連して、「学問の大衆化推進会議」の上から目線が気になったので、「みんなで学ぼうのすゝめ」はどうだろうなどと、言おうかなどと思ってはいたのだが…。

 自己紹介を、先日20歳の誕生日を祝われていた、立ち姿で一世を風靡した千葉市動物公園のレッサーパンダの「風太」から始めた。 人間なら80歳、白内障で片目、歯槽膿漏、毛も抜けて、ヨタヨタ歩いていた。 私も80歳を過ぎてヨタヨタ、と言おうとしたら、橋本壽之さん(NPO法人マイスターネット理事長・リーダーシップ研究アカデミー主席研究員)が1歳上で、「『先の見えない人生』とウェルビーイング」という話を、滔々となさった。 それで、<末枯(うらがれ)や何かと傘寿鼻にかけ>という俳句をつくった話をしようと思っていたのが、出来なくなってしまった。

 気を取り直して「八紘一宇」をご存知ですか? と、質問してみると、六割ぐらいの人が手を挙げた。 昭和16(1941)年生れ、馬場紘二の「紘」は「八紘一宇」の「紘」だ。 「八紘一宇」、「八紘」はあめのした、「宇」は屋根、世界を一つの家とする。 先の大戦時、大東亜共栄圏の標語である。  4歳の時、品川の中延で空襲を体験した。 高橋誠一郎文部大臣の六三制、戦後教育の2年目に小学校入学 ローマ字は習ったが、カタカナは教わらなかった。

 明治学院中学から、慶應義塾農業高校が普通高校に転換した志木高校の一期生。 新聞部で新聞をつくったのが、「ひとり新聞」「等々力短信」のそもそも。 昭和35(1960)年、大学の経済学部に進学、60年安保、早慶6連戦の年。 小尾恵一郎ゼミでいわゆる計量経済学(鳥居泰彦さん助手)。 昭和39(1964)年、東京オリンピック、東海道新幹線開通の年に卒業。 第一銀行で、渋沢栄一の丁稚を4年ほどやって落第、父と兄がやっていた零細なガラス工場に入って、金融危機で2000(平成12)年末に畳むまでやった。 以後、窮々自適の閑居生活をしている。