「等々力短信」や<小人閑居日記>は役に立つのか?2025/01/03 06:27

 「等々力短信」は、1975(昭和50)年2月25日(33歳)「広尾短信」創刊第1号で始まった。 初めはハガキ版(原紙を和文タイプで打った謄写版印刷)月3回「五の日」(広尾の縁日の日)5日15日25日に発行、40部だった。 今年2月25日に第1188号、満50年を迎えることになる。 今年の賀状の多くに「短信五十年 量と質とを比ぶれば 夢幻の如くなり」と添え書きした。 始めの頃から、「量が質に転化するか」と言って来たのだが、実は、どうだかよくわからないからだ。

 鷲田清一さんの「折々のことば」1675(2019.12.21.)に、鶴見俊輔さんの息子の鶴見太郎さん(日本近現代史研究者)が、父のことを語っている言葉があった。 「話すごとに、「おもしろいな!」「すごいね!」「いや、驚いた!」と、目を見張って、心底からびっくりしたような反応を示す人でした  鶴見太郎」。 長じて世間の大人たちが何ごとにも無反応なのを知り、逆に衝撃を受けたと。 黒川創の『鶴見俊輔伝』から。

 「等々力短信」や<小人閑居日記>に、あんまり反応がないと、つい、東京砂漠に水を撒くようだと、心のうちで、こぼすことがある。 「折々のことば」2580(2022.12.8.)「ある日、ある人が、ある場所で、何かをした。そのことだけでも、人はそこから何かを受け取る。 加藤典洋」。 鷲田清一さんは、「誰かに読まれることを想定せずに書かれた日記は、日々の出来事や献立を書くだけなのに、ときに強い喚起力をもつと文芸批評家は言う。一般的な基準でなく感覚の個人差が読む人を震わせるから。「湯豆腐(ベーコンと玉ねぎ入り)」という武田百合子の日記の一節に、自分も今度作ってみたくなったと。『僕が批評家になったわけ』から。」と。 なお、加藤典洋(のりひろ)さんは、2019年5月16日に亡くなった。

「見つける力、驚く力、感動する力、喜びを人と分かち合う力」そして2025/01/02 07:53

 「我々に一番大事なのは感心する才能ですね。  河合隼雄」というのが、鷲田清一さんの「折々のことば」3264(2024.11.15)にあった。 「クライアントに自由に箱庭を作ってもらう「箱庭療法」で、「これは何ですか」などと訊くのは最悪だと、臨床心理学者は言う。「うわー」と心を波打たせれば、相手はもっと作り込みたくなるし、ふと漏れてきた些細な話にも「ほうほう」と返せば、もう少し話してみたくなる。エモーション(感動)は文字通り人を動かす。谷川俊太郎との共著『魂にメスはいらないから。』

 X(旧ツイッター)に、片柳弘史さんという神父さんが、こんなことを書いていた。 慶應の法学部を出て、マザーテレサのところでボランティアをして、神父になった人だそうだ。

 「幸せな人とは、見つける力、驚く力、感動する力、喜びを人と分かち合う力、与えられた恵みに感謝する力を持っている人のこと。特別なものは必要ありません。誰にでもあるそれらの力を磨き上げるだけで、私たちは幸せになれるのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。」

 この日記や「等々力短信」、大晦日に出したように、「閑居していて珍奇な体験をすることもないし、世の中のことを論評する力もない。どうしても読んだ本から、あれこれ紹介することになる。」 読んだ本や新聞雑誌で、私が感心したものを紹介するのだが、そこに「感心する才能」はあったのだろうか。 「見つける力、驚く力、感動する力」は、十分だったろうか。 それを綴って発信する「喜びを人と分かち合う力」は、一応あるのだと思う。 しかし、そんなことを続けていられること、とりわけ家人に対する「与えられた恵みに感謝する力」は、十分だったとは言えないと、反省している年明けである。

高階秀爾さんの『本の遠近法』、「メタ情報」の宝庫2024/12/31 06:50

 美術評論家・高階秀爾さんが、10月17日に92歳で亡くなった。 28日朝日新聞夕刊「惜別」は、「美と知の泉 みんなの先生」という見出しだった。 私も2006(平成18)年「等々力短信」に、その著書『本の遠近法』(新書館)について、こんなことを書いていた。

      等々力短信 第969号 2006(平成18)年11月25日                   「メタ情報」の力

 閑居していて珍奇な体験をすることもないし、世の中のことを論評する力もない。 どうしても読んだ本から、あれこれ紹介することになる。 このところの「等々力短信」への評言で嬉しかったのは、「まとめ力」というのと、「私にとっての『リーダース・ダイジェスト』」というのだった。 ほかに褒めようがなかったのだろうが…。 昔、読んだ加藤秀俊さんの『整理学』に、「メタ情報」というキーワードがあった。 洪水のように出版される本の中から読むに足る本を見つけ出すのに、ダイジェストやアブストラクト、書評といったさまざまな「メタ情報」を活用すべきだ、と説いていた。 「等々力短信」が、その「メタ情報」になっていたというのは、書き手の喜びである。

 美術評論家・高階秀爾さんの『本の遠近法』(新書館)は、「メタ情報」の宝庫だ。 目利きがどんな本(複数)を選択し、組み合わせ、どう読んで、達意の文章に綴るか。 本物(プロ)の「まとめ力」というものを、実感することができる。 二つ例を挙げる。

網野善彦著『「日本」とは何か』の、「日本」という国号が7世紀末ごろに初めて登場し、それ以前には「日本」も「日本人」も存在しなかったという所から始めて、もし聖徳太子が「日本人」でないというのなら、ドイツやイタリアが統一されてその国号が登場したのは19世紀のことだから、レオナルドもゲーテも「イタリア人」や「ドイツ人」でないことになる。 そういわないのは文化的なつながりがあるからで、文化的一体感の故にゲーテは「ドイツ人」になった、と高階さんは説く。 さらに7世紀以来の「日本」が曲がりなりにも統一国家として存続し得たのは、何らかの求心力の作用があった。 その重要な要因の一つとして、勅撰集に象徴的に見られるような文化の役割が大きかったと考え、丸谷才一著『日本文学史早わかり』『新々百人一首』に話を進める。

 20年ごとに式年造替される伊勢神宮は世界遺産に認定されないけれど、日本人は「物」よりも「型」による継承に信頼を寄せたのだ。 日本文化にとって「型」は、きわめて重要だ。 和歌や俳句、歌枕や霊場巡礼、能や歌舞伎、茶の湯や生け花、日常の年中行事。 千年以上も前にできあがった短詩形文学の形式が、21世紀において広く国民の間で愛好され、活用されているという事態は、おそらく日本以外にはどこにもないだろう。

そのように説く『本の遠近法』は、「知」を湧かす「メタ情報」の力で、俳句をかじり、大相撲を見る私を、日本文化の本質に接近した気分にさせてくれた。

編集という方法と、日本という方法が重なっていった2024/09/09 07:03

 松岡正剛さん、2000年以降は、『日本という方法』などで本格的に日本文化論を展開した。 日本は東洋に属して、しかも海を隔てた列島だ。 四書五経も仏教も外から入ってきたもので、稲・鉄・漢字・馬も順番に立ち上がってきたのではない。 そういう国なので、編集的な多重性があるだろうと。 だから日本をよく見ることによって、世界の文明や文化が見えるだろうという関心を持った。

 しかし、そんな日本の文化や歴史にもかかわらず、マルクス主義や構造主義、存在論や現象学など西洋の学問の方法で語ろうとしてきたために、説明の付かないものが増えてしまった。 九鬼周造や鈴木大拙のように西洋的ではない「いき」や「禅」で解明しようとした試みもあったが、トータルには説明できない。 むしろ柳田国男や折口信夫が試みた民俗学的な日本を、もうちょっとやり直さないといけないなと考えた。

 「日本が大事だ」といえば、ナショナリズムと思われがちで、「松岡正剛の右傾化」と受け取られることもあった。 しかし、正剛さんが考えていたのは、日本という国そのものが「方法」であるということだ。 「日本は方法の国だ」という確信は初期からあって、だんだんそれを固めていった。 最終的には「擬(もどき)」と言った。 なぞらえる。 あやかる。 歌舞伎や江戸遊芸では「やつし」と呼ばれるものだ。 本来のものを想定はするんだけれども、そこに少し逸脱をかける。

 どうも大日本帝国主義とか神国日本というのは、その本来を巨大化しすぎてしまう。 奥には正体不明だけれども日本が実感される「何か」はあるかもしれない。 でも、それを神様とか天皇に求めるべきではない。 やつさないと、そらさないと。 そのために方法がある。 私(正剛さん)が考えてきた編集という方法と、日本という方法が重なっていったのだ。

 最後に『仮説集』を残したい、エビデンスなしで、無責任な仮説を並べたてて終わりたい(笑)。 虚実をまぜた「編集的ボルヘス」という感じのもの。 芭蕉が「実から虚に行くな、虚から実に行け」という方法に近いものだ。 リアルがあってバーチャルがあるんじゃない。 バーチャルを先に作らないとリアルなんて説明がつかないと。 これですね、最後にやりたいのは。 それでやっと「本当にあいつは変だった」といわれるんじゃないですか(笑)。

知の編集工学にかたちを求め、ネットの片隅に「編集の国」2024/09/08 07:26

 松岡正剛さんは、雑誌『遊』を出しながら、編集とは組み合わせであるという確信を強めていった。 何かと何かを組み合わせる結合術は、それ自体が世界の新たな「あらわし」と「あらわれ」になる。 科学的なものと精神的なものを一緒に扱いたいと思っていたので、『遊』は宗教性や精神性など、秘教的なイメージにも危ういほど近づいた。 科学と精神、それぞれ守っている領域を超えようとしたときに、たとえば神秘主義とかオカルティズムが読者に感じ取られ、いまでいうスピリチュアルな読者がものすごく増えたことは事実だ。 ただ、正剛さんは、科学の領域と宗教の領域を混ぜて編集がしたいわけなので、ある思想に依拠したのではなかった。

 1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立。 美術全集『アート・ジャパネスク』(全18巻)や、文明の歩みを壮大な年表にした『情報の歴史』を手がけながら、「編集工学」の構想を練った。 「我々は生(なま)ではない」というのが、正剛さんの考え方の基礎にある。 メガネをかける、鉛筆やパソコンを持つ、言葉や図形や数字を使う、そこには必ず技術とか工学が加わっている。 となると、編集というものも工学の何かを借りている。 あるいは、編集そのものが工学じたいを生み出している。 工学性が編集に与えた影響と、編集が工学にもたらしたものをひもづけたい。 そう思い始めて、「編集工学」に向かっていった。 96年に『知の編集工学』で体系をまとめた。

 同時にメディアへの失望も感じていた。 いちばんの理由は、ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争だった。 この二つをきちんと捉えきれていない日本の実状に、かなりがっかりしていた。 日本は、元は国家どころか小さい単位でたくさんのものがあったのに、それが近代化を目指して国民国家を作り、徴税と徴兵のために「国民」と「そうでないもの」を分けてしまった。 ふとメディアを見ると、テレビも新聞も雑誌も国民国家的になっている。 これでは元々あった自由度や多様性から遠いなと、ずっと思っていた。 正剛さんが超えなければいけないのは国民国家というものだった。

 そういうなかで、知の編集工学にかたちを求めたい。 そう考えて、インターネットの片隅に「編集の国」を作るという発想に至った。 編集だけが進んだ国に旅をして、また戻っていく。 プリントメディアだけではなく、生きた状態で立ち寄れるところを作ろうと。

 それが後に、編集の方法を学ぶ「イシス編集学校」と、正剛さんが本を一冊ずつ取り上げて自在に書き継ぐ「千夜千冊」につながった。