安西敏三さんの「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」 ― 2026/02/02 07:06
安西敏三(としみつ)さん(甲南大学名誉教授)は、1月10日の第191回福澤先生誕生記念会の記念講演で、「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」を聴いていた。 私には難解だったが、レジュメをもらったので、それによって辿ってみたい。
1. 「新しい世界には新しい政治学が不可欠である」(A. d.トクヴィル)
儒学は「己を修め人を治める」・「修身斉家治国平天下」(『大学』)を原則とする政治哲学だが、福沢は「修身斉家」は個人の問題、「治国平天下」は政治の問題であって、別だという。 「内に存する無形のものを以て外に顕わるる有形の政に施し、古の道を以て今世の人事を処し、情実を以て下民を御せんとするは惑溺の甚だしきものと云ふべし」。 「修身斉家」とは区別された「治国平天下」の政治学が不可欠だとする、政教一致批判だ。
「政治の名を何と名るも、畢竟、人間交際の一箇条」(←ギゾー、バックル、ミル)。 江戸時代は政治を武士=官僚に任せていたが、それは社会の一部、政治以外で活躍する必要がある。 文明は、精神mental(「道徳」Moralと「智恵」Intellectual)の進歩progress(バックル)。 なお、後に儒教主義による徳育論に抗する「科学としての政治学」の必要性(←ミル)を説いた。
2. 両眼主義「両眼を開いて他の所長を見るべし」
多事争論と比較的視点の必要性(←ギゾー、ミル)。 反対論も含めて議論し、確実性を保障→「智恵の獲得」・「人間知性の本性」(ミル)。 cf. 諫めの重要性 : 堀景山(本居宣長の先生)の「聖人」、「東照宮諫言を容れ給ひし事」(湯浅常山)。 (つづく)
どうすれば独立を維持できるか、J・S・ミルと対話して学ぶ ― 2026/02/01 08:10
山田博雄さんの「福沢諭吉―「両(ふたつ)ながら」の思想家」で、(安西敏三本や中村敏子論文)とあるのは、安西敏三『福沢諭吉の思想的源泉―J・S・ミルとの対話を中心として』(慶應義塾大学出版会)、中村敏子「自由と「権力の偏重」―福沢諭吉とJ・S・ミル」(『北海学園大学法学研究』第60巻4号2025年3月)、中村敏子「「君子の身の位」と「ヂグニチー」―福沢諭吉とJ・S・ミルの道徳論」(『北海学園大学法学研究』第61巻1号2025年6月)である。
山田博雄さんは、「福沢最大の対話者としてのJ・S・ミル」という見出しで、「福沢思想の理解にJ・S・ミル理解は欠かせない」と始める。 『福沢諭吉の思想的源泉―J・S・ミルとの対話を中心として』の著者、安西敏三さんは、「福沢が読んで付箋を貼り、書き込みをした西洋思想書の現物(いわゆる福沢手沢本)を丹念に読み解き、福沢がいかに自らの思想を形成したのかを研究してきた第一人者である。」 「著者は、福沢にとって西洋の思想家として最大の対話者、触発者としてJ・S・ミルを挙げる(「理論はミルに任せる」との福沢自身のことばを引いている)。福沢がミルの思想書と対話し、自らの経験の意味を捉えなおし、新たな思想に鍛え上げ、自分のことばで表現する。――要するに、福沢の思想生成過程の分析が、従来の著者の書物と同様に、本書の最大の特徴であり長所である。」
「ミルに限らず西洋思想書に向かう福沢の態度が、いかに主体的であるかということも、本書から自ずと浮かび上がる。すなわち福沢の生きる場、19世紀末の明治日本が、帝国主義の西洋列強に伍して、どのように独立を維持できるかという問題意識が、福沢に一貫している。」
「つまり手段・知的道具としての西洋思想学習である。その目的意識の鋭さと「学者」の「職分」意識と実践(「行動」)が、福沢をして西洋思想書読解の驚くべき深さに至らしめた。「学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し」(『学問のすゝめ』十二編)とは、福沢本人の日ごろの実践そのままだ。」
「著者がミル『功利論』(「功利主義」とも)の福沢による書き込みを調査している際に、丸山真男が与えた示唆。①福沢の注意を引いた箇所(だから書き込みをしたわけ)だが、それはミルの見解であって、福沢はただ内容を要約したに留まるものか(「着眼」)。②福沢自身が共鳴した見解か(福沢自身がすでに考えていたことゆえの「共鳴」)。③福沢が初めて学んだ見方か(「学習」)。」
「たとえばミル『功利論』の有名な一節への福沢の書き込み。「満足スル豕ニ為ルハ人ト為ルニ如カズ」。福沢はミルに「共鳴」(②)している。というのは、「人の品行は高尚ならざる可からずの論」で「物事の有様を比較して上流に向ひ、自ら満足することなき一事」(『学問のすゝめ』十二編)と書いて、福沢は「既に展開している」から、と著者は指摘する。」
「また、ミルがnoble feelings「ノーブルヒーリング」(福沢の表記)というところを、福沢は「学び取ってノートし」、「今ノ少年ガ妻ヲ娶リ官員ニ為リテ」云々と書き込んでいることを挙げて、「日本の場に於いて」福沢がミル理解を試みている実例とする(おそらく「共鳴」(②)と「学習」(③)。」
「数葉掲載されている写真の触発力も大きい。原書に書き込まれた福沢の筆跡が見られるのだ。福沢はほとんど下線も引かず、英単語の下に日本語の意味を書き込むことも一切ない。ページの余白に、翻訳でなく、いきなり(?)日本語で自分の感想、考え、日本に類似の例などを、書き損じもなく毛筆で綺麗に書き込んでいく。こんなふうに福沢は勉強していたのか。その一端を知ることができる。「百聞は一見に如かず」で、写真の語る情報量の多さに改めて思い至る。」
山田博雄さんの「福沢諭吉―「両(ふたつ)ながら」の思想家」 ― 2026/01/30 07:08
『福澤諭吉年鑑 52』2025年(福澤諭吉協会)、山田博雄さん(中央大学法学部兼任講師)の「研究文献案内―2024年から2025年へ―」に教えられることが多く、感心した。 冒頭の「福沢諭吉―「両(ふたつ)ながら」の思想家」では、「今年は従来の福沢研究を塗り替えるような作品が登場した。一つは、福沢の西洋思想解読を分析して、その思想の生成過程を探究する研究である。福沢諭吉はいかにして福沢諭吉となったか。同類の研究は以前から存在するが、最新の研究はかつてないほど福沢に内在した理解を示す。(安西敏三本や中村敏子論文)。二つは、福沢の「言語」と「行動」の活動総体をみることによって、福沢に一貫する思想はあるのか・ないのか、あるとすれば何か――これは古から今に至るまで福沢研究の最も根本的な問題のひとつである――を明らかにしようとする研究である。(都倉武之本)。」
「上記の研究などを通して改めて想起されるのは、第一に、福沢の思考が――別に目新しい考えではないが――きわめて複数主義pluralism的だということである。(必ずしも二つに限らないが、福沢のいわゆる「両ながら」)。善か無かでなく、優先順位の思考であり(「今」の強調)、〝比較級〟の発想である(「悪さ加減」の選択)。その意味で福沢はたしかに「自由」の思想家といえる。「一身にして二生を経る」という19世紀日本の歴史状況が福沢を複数主義的思考に導いたのだろうか。」
「第二は、自らの経験を思想化し得る、福沢の言語能力(とその運用力)である。そして、西洋思想を理解し、それを「今」の日本社会を変革するために、自在な日本語で駆使できたのは、単に頭脳明晰なだけでなく、経験からくる強い感情的反応(「門閥制度は親の敵」)に突き動かされていたからに違いない。知と情の稀有な結合(「両ながら」)。それが福沢の言語能力をさらに鍛え、思考力を持続させた。」
「第三は、福沢研究の専門家と非専門家との間で、福沢にかんする情報・知識が必ずしも共有されていないのではないかという、素朴な疑問である。もし、この150年の日本社会を考えようとするならば、その「思想的原点」ともいえる福沢について、まずは最小限の共通理解(事実問題についての、解釈問題についての、ではない)が持たれてしかるべきではないだろうか(その点『福沢諭吉事典』は大変便利)。専門家と非専門家との相互交通communicationの重要性と必要性は、非専門家にとってだけでなく、専門家にとっても有益なはずである。」
アサブロ・ランキング2025年 ― 2025/12/31 07:32
今年も一年、「轟亭の小人閑居日記」を書きとおすことが出来た。 それまで「等々力短信」が早くできると25日以前でも発信していたのを、9月の「等々力短信」第1195号からは、25日には「轟亭の小人閑居日記」を出さず、「等々力短信」を発信することにしたので、一日に日記と短信が二本だぶることはなくなったけれど。
「消えゆくブログサイト」「アクセス数1/3に 運営撤退相次ぐ」という新聞記事が出て、10月、朝日(ASAHI)ネットは、ぜひブログを続けて欲しい<小人閑居日記 2025.10.6.>、#ブログサイトの火を消すな!!!<小人閑居日記 2025.10.7.>を書いた。 ASAHIネットは、2005(平成17)年5月にブログサイト「アサブロ」を開設、私は同月14日から「轟亭の小人閑居日記」を発信して20年と半年になった。
ASAHIネットのアサブロには、毎日アサブロ・ランキングが発表される。 どれだけの数の方が読んで下さっているか、実数は公表されないが、一応の目安になるので、毎日その順位を記録している。
2025年4月8日には、大河ドラマ『べらぼう』に関連して蔦谷重三郎を書いていた流れで書いた「蔦重出版物の其角の句、「江戸吉原」イメージ継承」が、なんと1位になっていた。 一昨日12月29日には「全国高校ラグビー一回戦、慶應志木48対12で青森山田に快勝」を書いて、志木高同期やLINE仲間、X(旧ツイッター)でも知らせたら2位になった。 1位と2位は、その各一回だけだが、以下次の通りになっている。 5位8回、6位10回、7位8回、8位21回、9位16回、10位22回、11位17回、12位24回、13位26回、14位29回、15位36回、16位38回、17位31回、18位25回、19位18回、20位12回、21位10回、22位6回、23位2回、24位1回、25位1回、26位1回。 それより下になったことは、一度もない。 以上、12月30日まで計364回分。 明らかに、14位から17位がピークの正規分布曲線になっている。 お読み下さっている方々に感謝するとともに、毎日を支えてもらっている家内と、健康で続けていられることに感謝したい。
2000年末で家業のガラス工場の火を落とし、「轟亭の小人閑居日記」をミレニアム問題を通り抜けたパソコン通信時代の朝日(ASAHI)ネットで書き始めたのは、会社の整理も一段落した2001年11月28日のことであった。 出入りの大工さんに、「紘二さんは、これから何をするんですか」と聞かれた。 「何もしない」と答えて、「働かず」に来た。 以来、25年、「轟亭の小人閑居日記」は、なんと四半世紀になった。
#ブログサイトの火を消すな!!! ― 2025/10/07 07:10
私が驚いたこの9月25日の記事を読んだ天声人語氏は、10月2日にそれを取り上げた。 「俳誌の「ホトトギス」は、明治の一時期、読者から1週間分の日記を募って掲載していた。ある教師は「十一日 六時が鳴りました、妻に驚かされて起く。急ぎて行く。八時前五分学校に着く」▼事件が起きたわけでも、有名人が日常をのぞかせるわけでもない。鋳物師や病気の子のいる親など、じつに多くの市井の人が、己の行状を他人の目にさらした。これは何なのか▼でもよく考えれば、日々感じたことや何げない光景を記録し、多くの人に見てもらいたいというのは、今も変わらぬ心理だろう。ネット社会で、その実現を飛躍的に簡単にしたのがブログだった。2000年代初頭に広まり、日記などを発信できるツールとして人気に。匿名で書かれた「保育園落ちた日本死ね!!!」は社会を動かした。」
天声人語は、この後、記事にふれて、「ブログの時代は終わった」そうだ、としつつ、「子育てで、仕事で、病床で。同じような境遇で奮闘しているブログの書き込みに励まされた人も少なくないだろう。自分と誰かをつないだ見えない言葉の糸。そんな記録が丸ごと消えてしまうとしたら、何とも残念だ」とした。
実は、9月25日の記事では、「現在残るサービスは「はてなブログ」「ライブドアブログ」のほか、「Amebaブログ」「FC2ブログ」などだ」として、朝日新聞にルーツを持つASAHIネットの「アサブロ」に言及がなかった。 朝日新聞「天声人語」のブログに対する評価と応援を得て、ぜひASAHIネットは「アサブロ」を続けて欲しいと思う。 多くのブロガーも、読者も、ブログの存続を希望する意見を発表して、一大運動に盛り上げて欲しい。 我田引水の感はあるけれど、ぜひ皆様に拡散していただきたい。 #ブログサイトの火を消すな!!!
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