殖産興業・平賀源内の悲しみ2005/09/28 06:34

 『知るを楽しむ』《この人この世界》夢枕獏さんの「奇想家列伝」、9月26日 の最終第八回は「才能のもたらした悲劇―平賀源内」だった。 平賀源内 (1728-1779)は、田沼意次の時代の人、享保13年四国高松藩生れ、秀才の誉れ 高く、なんでも書きとめるすさまじい好奇心の持ち主だった。 25歳で藩の留 学生として長崎に遊学、オランダ人、中国人からいろいろな知識を学ぶ。 物 産を買うために、日本の金・銀・銅がどんどん流出してゆくのも見た。 「こ れはいかん」と思い、「国力増進」や鉱山のことを一生考え続けることになる。

 20代後半江戸へ出て、本草学者田村元雄(げんゆう)に弟子入り、各地方の植 物、鉱物、魚介類を展示する、大規模なものとしては初の世界物産会を催す。  日本初の博物目録『物類品隲(ひんしつ)』を出版。 源内が自信のあった仕事 の一つだろうという。 34歳で浪人となり、37歳で燃えない布「火浣布(石綿 製の布)」を製造、39歳には秩父で金山開発、41歳で寒暖計を製造、ほかにも 羊毛開発など殖産興業に手を染める。 最初は華々しいが、みんなしりすぼみ になっている。 才能がありすぎ、気が多くて、つぎつぎに移っていき、あと を任された者が困った。 そんな間に手がけた戯作で名を高めた。 36歳の談 義本『根南志具佐』、39歳の好色本『長枕褥(しとね)合戦』、42歳浄瑠璃『神霊 矢口渡』などなど。 だが一番成功したこの仕事を、本人は本業とは思ってい なかった。 舶来のエレキテルを修理し、大名や豪商のお座敷で見世物にして、 お囃子の中にぎにぎしく見せた。 それを産業に役立てようという情熱は、す でに失せていた。 51歳の句「功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ」。

いろいろ手がけながら、成功したもの、実になったものの少ない、源内の悲 しみが見え隠れするところに、夢枕獏さんは源内の面白さ、惹かれるところが あるという。 自宅に泊めた知人を斬り殺して捕まり、小伝馬町の牢で破傷風 で死んだ。 夢枕さんは十年早く長崎に行かせたかった、十年のゆとりがあれ ば、もっと仕事を残したろう、日本に有利な自由な貿易さえ生れていたかもし れないと、夢想せずにはいられない、と話した。