「たぶの森」の移動と由来の碑 ― 2011/12/15 04:31
10日、折口信夫・池田弥三郎記念講演会が、三田の西校舎527番教室であり、 聴きに行った。 まず、この会の事務局をその研究室が務める藤原茂樹教授が 「師の声」と題して、折口信夫・池田弥三郎両先生の録音を紹介した。 折口 信夫は歌の朗詠、高い声だった。 もはや、藤原教授は、池田弥三郎さんの謦 咳に接する事の出来た最後の世代(一年前の)なのだそうだ。
池田弥三郎さんは、昭和55(1980)年65歳(年譜は67歳、数え年)で慶應を定 年退職し、折口信夫先生の記念にと退職金で三田の山の上に80本ほどの「た ぶ」を贈り、新設の洗足学園魚津短期大学教授となる。 3月7日、演説館前 に「たぶ」を植樹したあと、慶大言語文化研究所の総会で講演した。 寒い、 冷たい雨の降る日だったそうで、宵から寒気があり、39度6分の熱、肺炎と診 断された。 録音は、その日の慶應での最後の講演で、その一部が紹介された。 内容については、明日書くことにする。
順調に育っていた池田弥三郎さんの「たぶの森」は、今年完成した南校舎の 建替で、大きく様相を一変した。 この日配られた資料にあった藤原茂樹教授 の「椨(たぶ)林の移動と釈迢空の歌の発見」(『三田評論』第1125号(2009年7 月))によると、2009年5月正門左守衛室奥に28本あった「たぶ」とシラカシ の林が間引かれて、選ばれた「たぶ」12本が、すでに桜の季節に移植されてい た泰山木と創立百年記念のオリーブの隣に、移された、とある。 藤原教授に 教えられて、この日の主講演、神野富一甲南女子大学教授の「海の補陀洛信仰」 が始まる前の休憩時間に、西校舎に隣接する南館(ノグチルームのあった第二研 究室跡の建物)と演説館の間へ、移植された「たぶ」の木を見に行った。 「た ぶの森由来」の碑も、ここに移されていた。
2008年11月1日の折口信夫・池田弥三郎記念講演会で、文芸評論家の梶木 剛さんの「椨(たぶのき)のある風景」を聴いて、11月6日から8日までのこ の日記に書いた。 その8日は「「たぶの森由来」の碑」。 ちょうどその日、 日吉で慶應義塾創立150年記念式典が行われ、『慶應義塾史事典』が刊行され た。 その事典の「「たぶの森由来」の碑」という項目に「昭和六二(一九八七) 年折口信夫生誕一〇〇年記念講演会の際に、…除幕された」「この碑は、古代研 究に関連してたぶの木に深い関心を寄せた折口を記念するものとして、門下生 の池田弥三郎が発案、誕生した。」とあるが、池田弥三郎さんは昭和五七(一九 八二)年七月五日に亡くなっているので、「原稿は「この碑は」ではなく、「こ の森は」になっていたのではないだろうか」と指摘したのだった。 このブロ グを読んだ、当時『福澤手帖』の原稿のことでやりとりがあった慶應義塾大学出版会の担当者に、メールで指摘のお礼をいわれた覚えがある。
下記の『慶應義塾史事典』正誤表では、「この碑は」→「このたぶの森は」と、なっている。 http://www.fmc.keio.ac.jp/common/pdf/gijyukujitenseigo201108.pdf
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