『檀』の「檀ふみ」2012/08/17 01:51

 ミーハーではあるが、沢木耕太郎さんの『檀』に出て来る「檀ふみ」を拾っ ておく。  序章、ふみの別荘で正月、沢木のインタビューのために『火宅の人』を読み 直したヨソ子が、茫然として、「私は、お父様のことを少し美化しすぎていたか もしれないわ」と言う。 『火宅の人』は、あまり正月にふさわしい読書では ないかもしれないと笑っていたふみが、努めて明るい口調で言った。 「お母 さん、死んでもチチのところへは行かれないかもしれないわね」 しかしよく 見ると、ふみの眼には薄く滲むものがあった。

ヨソ子が家を出たあと、一度は入江杏子も家に入ろうかと考えたことがあっ たらしく、石神井の家に立ち寄った。 それに幼いふみが、「帰れ!」と言った という。 看護婦か女中に知恵をつけられただけだろうが、とある。

 檀一雄は昭和51(1976)年の1月2日に九大病院で亡くなるのだが、その1 年半前の昭和49(1974)年(62歳)7月下旬、健康のために博多湾内の能古 島(のこのしま)に移住する。 その冬、雪が降ると、謡曲「鉢木(はちのき)」 に出て来る白居易の詩の一節を口にした。 その時は何の文句かわからなかっ たヨソ子が、檀が死んだあと、新聞の大岡信さんの『折々のうた』で、「雪は鵞 毛に似て飛んで散乱し 人は鶴氅(かくしょう)を被(き)て立って徘徊す」 だったと知る。 娘たちに言うと、「鉢木」を知らない、説明しかけたが、別に 興味もなさそうなので、途中でやめた。 翌朝、大岡さんの文章全文を写した 半紙がお手洗いに貼ってあった。 ふみの筆だった。

 その昭和49(1974)年暮、ふみがNHKの紅白歌合戦の審査員になり、和服 の着付けやなにやら面倒をみなければ心配なことがあったから、檀だけを残し て東京に戻った。

 ふみは女優としてかなり忙しくなっていたが、仕事の合い間を縫って、九大 病院に見舞いに来ていた。 檀は、病院の上空を旅客機が通過すると、もしふ みが来るなら、あの飛行機だな、などと言ったりした。 檀もどこか心待ちす るところがあったらしく、東京福岡便の時間はすべて覚えてしまったようだっ た。

 昭和50(1975)年、9月『火宅の人』の最終章が雑誌『新潮』十月号に載り、 11月単行本が出版された。 その刊行に合わせ、新潮社の『波』と『週刊新潮』 に記事が出た。 『週刊新潮』の記事に、檀自身に告げていない「悪性の腫瘍」 という言葉があった。 その記事に最も動揺したのが、ふみだった。 新潮社 の担当者に電話して、いくら本の宣伝のためとはいえ、そんなことまで書く権 利はないと出版社を非難し、「父には病気とだけ闘わせたかった」と言って、泣 いたという。 ふみには、(その8月)『火宅の人』の最終章の口述などせず、 治療に専念させたかったという強い思いがあったのだ。

 亡くなったのが正月で、火葬場に困った。 なんとか柳川にみつけた火葬場 は、すべてが侘しく寒々としていた。 焼いてくれたのは、風邪でも引いてい るのか、首にガーゼのような布を巻き、綿入れ半纏を着た中年の女の人だった。  ふみが「いかにもチチが面白がりそうな人ね」と言うと、そこでみんなの緊張 が解けて笑い声が起きた。