新宿の雑踏に、その人はいた2012/08/06 01:49

 ネタばれになるから、この先の物語は書かないが、『空也上人がいた』は山田 太一さんらしい展開を見せる。 若干のヒントを洩らす。 吉崎征次郎さんは 中津草介に、重光さんは「色っぽいよなあ」と言い、「八十のじじいが骨抜きに なった」と告白する。 八十を超えて、終りに少しばかり人の人生に関わりた かった。 吉崎さんにも、草介と同じように抱えているものがあった。 「と りかえしのつかないことは帳消しにはならない」。 だが、「なにもかも承知で、 しかし、ただ黙って、同じようにへこたれて歩いてくれる人に会わせたいと思 った。」

 終章、七十半ばの草介が老婆の乗った車椅子を押している。 夢の中なので、 吉崎さんも並んで歩いていたが、いつの間にか消えていた。 新宿駅の東口か ら、伊勢丹へ向かう雑踏のようだ。 すると並んで歩いている人がいるのだっ た。 歩調に合わせてくれていた。 少し顎を上げて、小さく口をひらいて、 汚れた衣を着て、細い脛を出し、履きつぶしかけの草鞋で…。

 落語の『化物使い』が物語の中に登場した山田太一さんの『空也上人がいた』 を読んで、立川談志の落語論に通じるものを感じた。 談志は、人間の生の根 底に潜む、曖昧模糊とした「人間の業」という摩訶不思議なものを描くのが、 落語だといつも言っていたのだった。

慶應庭球部と、熊谷一弥、原田武一2012/08/07 01:55

 世界ランク17位の錦織圭(22)がロンドンオリンピックのテニス、男子シ ングルスで健闘し、88年ぶりにベスト8に残ったが、惜しくも92年ぶりの4 強進出は逃した。 というのは、よく報道されたけれど、88年、92年前の選 手が誰であったかに、言及するテレビも新聞もなかったように思う。 88年前 は、1924(大正13)年パリ大会の原田武一(たけいち)。 92年前は、1920 (大正9)年アントワープ大会で銀メダルを獲得した熊谷一弥(くまがいいち や)。 熊谷一弥も原田武一も、慶應義塾庭球部出身の選手だった。

 慶應で庭球部といえば、小泉信三さんを思う。 小泉信三さんが選手として プレーしたのは、110年前の1902(明治35)年から103年前の1909(明治 42)年までの7年間で、卒業後は部長として「庭球王国慶應」の基礎を築いた という。 熊谷、原田の頃は、「部長」だったのだろう。 慶應の庭球部は、 1899(明治32)年、前身である清遊ローンテニス倶楽部が誕生し、小泉さん が入る前年の1901(明治34)年に庭球部として体育会に加入した。 当時の 日本のテニスは軟式のみで、東京高商(一橋大)、高等師範(筑波大)が圧倒的 に強かった。 1904(明治37)年、慶應が初めて高商を破り、高商・高師時 代に終止符を打たせるのだが、その中心選手の一人が小泉信三さんだった。 こ の年、野球でも慶應・早稲田が当時全盛を誇った一高に勝ち、スポーツにおけ る私学勃興の年となった。

慶應庭球部の日本庭球界に対する最大の功績はいち早く硬式テニスをしたこ とである。 軟式テニスで実力を発揮しているのに今更変える必要があるのか という意見や、国内で対戦相手を得られない不便さを、押し切って硬式の採用 に踏み切ったからこそ、海外遠征による国際試合の経験も積むことができ、日 本のテニスはようやく世界の仲間入りを果すことができたのであった。 1913 (大正2)年のことで、その後の庭球部隆盛の礎となった (選手時代の小泉 信三さんは軟式だったわけである)。 1920(大正9)年のアントワープオリン ピックで銀メダルを獲得した熊谷一弥を始め、原田武一、山岸二郎、藤倉五郎、 隈丸次郎、石黒修など12名のデビスカップ選手が輩出し、日本庭球界に大き く貢献している。

 熊谷一弥は、慶應庭球部が1913(大正2)年2月19日に日本で最初に硬式 テニスの採用に踏み切った時の部員で、同年12月慶應のチームメートととも にフィリピン・マニラの東洋選手権に派遣された(日本人テニス選手初の海外 遠征)。 この時熊谷は、シングルス準決勝とダブルス決勝に進出し、単複とも 優勝した全米ランキング2位のビル・ジョンストンから大きな刺激を受けた。  1913(大正2)年、上海の極東選手権競技大会に柏尾誠一郎(東京高商卒)と ともに出場し、シングルス・ダブルスの両方で優勝した。 1916(大正5)年、 熊谷は三神八四郎(早稲田大学卒)とアメリカに遠征、ジョンストンを破るな どして注目され、二人は全米選手権に出場、日本人初の四大大会出場者となっ た。  慶應義塾大学卒業後、熊谷は三菱合資会社銀行部(現、三菱東京UFJ銀行) に入り、ニューヨーク駐在員となる。 1918(大正7)年の全米選手権でベス ト4に進出、翌年の全米ランキングではビル・ジョンストン、ビル・チルデン に次いで3位となる。 そして1920(大正9)年のアントワープ五輪でシング ルス・ダブルス(柏尾誠一郎とペア)とも銀メダルを獲得して、日本人のスポ ーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手となるのである。

 原田武一は、1917(大正6)年に慶應義塾大学予科に入学、庭球部に入り、 OB熊谷一弥の活躍に大きな刺激を受けた。 講義にはほとんど出席せず、テ ニスの練習と豪放な私生活の遊び(美貌の青年として女性に人気があった)で 有名だったという。 1923(大正12)年、前年始まった全日本テニス選手権 で初優勝、それが認められてハーバード大学「特別科」に留学する。 1924(大 正13)年、パリ五輪に日本代表選手として出場、ベスト8に残ったが、前回大 会で熊谷一弥が銀メダルを獲得していたため、「後退」とみなされた。 1925 (大正14)年から27(昭和2)年が原田の最盛期で、全米選手権やデビスカッ プ戦で活躍、1926(昭和元)年の全米ランキング3位、世界ランキング7位と なる。

ホテルオークラ「日本絵画の巨匠たち」展2012/08/08 00:55

 3日初日のホテルオークラ「秘蔵の名品アートコレクション展」に出かけた。  今年は「日本絵画の巨匠たち 東京美術学校から東京藝術大学へ」という題が ついている。 例によって「花より団子」、この時期「桃花林」の冷し中華が楽 しみなのである。 とくに今年は着いた時間が11時半、展覧会より先に「桃 花林」へ行った。 それが正解で、夏休み真っ盛りの展覧会初日、予約がない と喫煙席、しかも一時間なら、と言う。 でも春巻を足した、冷し中華は大満 足、展覧会を忘れそうになる。

 ことし東京藝術大学は明治20(1887)年の創立から125周年、平山郁夫を 始めとする東京美術学校最後の卒業生を送りだした昭和27(1952)年から60 年目に当たるという。 ホテルオークラも開業50周年だそうだ。 東京美術 学校の歴代教員と卒業生の中から45名を選び、84点の秀作を集めた展覧会で ある。

 「日本絵画の巨匠たち」の「日本絵画」は、一見そう思う「日本画」ではな い、「西洋画」も含まれる。 東京美術学校の西洋画科は、明治29(1896)年 に黒田清輝と久米桂一郎が中心となって新設された。 黒田清輝が導入した制 度に、卒業制作とともに「自画像」を義務付けたことがあり、現在まで継続さ れている。 明治31(1898)年最初の西洋画科卒業生白瀧幾之助(名前も知 らなかった)に始まり、13人の自画像がある。 それぞれに、人柄と作風の両 方で、それらしい絵になっているのが、面白い。 文芸作品で処女作がずっと 後を引くといわれるのと同じだろうか。 皆そうなのだが中でも神経質そうな 佐伯祐三と駒井哲郎、帽子をかぶった岡鹿之助と野間仁根、おっさんのような 萬鉄五郎と中村研一、青年らしくすっきりした香月泰男と勅使河原宏(芸大出 だったのだ)。 この「自画像」だけでも、見る価値がある。

 宮内庁蔵の六曲一双×二(計四)の屏風、東山魁夷の「悠紀(ゆき)地方風 俗歌屏風」と高山辰雄の「主基(すき)地方風俗歌屏風」が、奥にでぇーーん と展示されている。 毎月三宅坂の国立小劇場に行くけれど、お濠の中には縁 がないので、見たことがなかった。 古来天皇即位の大嘗祭には、京都より東 を悠紀(ゆき)、西を主基(すき)として新穀を報ずる国にちなんだ和歌と風景 図を屏風絵に仕立てて配置するものなのだそうだ。 平成2(1990)年作のこ れは、今上天皇ご即位時に日本芸術院から二人が選ばれ、東山魁夷が悠紀地方 で秋田県、高山辰雄が主基地方で大分県を担当、それぞれ大和絵の「すやり霞」 (←この言葉も初めて知る)の間に春夏・秋冬の景色を描いている。 新知見 だらけの屏風だった。

 私が一番気に入ったのは、加藤栄三の日本画「秋」(昭和6(1931)年)であ る。 秋の色の中にある谷間の一集落を描いているのだが、それがいかにも平 和でのどかな小宇宙という感じがするのだった。

「ふるさとアンテナショップめぐり2012」2012/08/09 00:36

 ホテルオークラの展覧会のあと、虎ノ門から東京メトロ銀座線で、京橋まで 行った。 福島県のアンテナショップ「福島県八重洲観光交流館」が、八重洲 ブックセンターの隣にあると知ったからだ。 以前、日本橋三越前の「にほん ばし島根館」か「奈良まほろば館」で、たまたま東日本大震災の福島に協賛し て置いてあった「えごま味噌」を買った。 美味しかったので、家内がまた買 いたいというのだが、商品名も発売元もわからず、ネットで福島県のアンテナ ショップを調べて、聞くと、奥会津の「えごま味噌」ではないかと言う。 「そ れだ、それだ」ということになった。 瓶のラベルを見て、「これ、これ」、「奥 会津発 えごま味噌」只見町のヤマサ商店製だった。 ほかに須賀川市長沼町 から宣伝販売していた油揚が、厚めで、私には新潟の栃尾(一、二度食べたき りだが)のより、おいしいような気がした。

 前から、こういうものが欲しいと思っていた「ふるさとアンテナショップめ ぐり2012」というパンフレットがあった。 35県のショップの紹介と、見や すい地図である。 私がよく行くのは銀座1丁目の「おいしい山形プラザ」、 東京交通会館の「秋田ふるさと館」「むらからまちから館」、東銀座の「いわて 銀河プラザ」、新橋の「香川・愛媛せとうち旬菜館」など。 入ったことがある のが、銀座1丁目の沖縄「銀座わしたショップ」と近くの「まるごと高知」、 数寄屋橋の「銀座熊本館」、日比谷の「加賀・能登・金沢江戸本店」、そして最 初に書いた島根県と奈良県の二店だ。

 各県によって、規模も店のスタイルも、いろいろである。 今回行った「福 島県八重洲観光交流館」のように、ショップというより、観光案内中心のよう なものもあれば、私がよく行く「おいしい山形プラザ」のように豊富な品揃え の店に有名シェフのレストランを併設しているものまである。 それぞれの県 の力の入れ方、センスに差があって、面白い。

平原綾香と一青窈の「マチウタ東京」2012/08/10 02:40

 オリンピック観戦の狭間に、以前たまたま録画しておいたNHK BSプレミア ムの「マチウタ東京」という番組を見た。 平原綾香と一青窈の出演。 なか なか洒落たつくりの番組だった。 平原綾香は、東京湾から隅田川をさかのぼ り、浅草の街を歩く。 晴海埠頭でレインボーブリッジをバックに歌ったり、 伝法院の庭園で歌ったりする。 浅草寺の銀杏に戦災の跡を見たり、ふじ屋で 手拭を買い、三社祭の準備をする提灯屋さんの心意気を聞き、花川戸の子供達 のお囃子の稽古に参加する。 私が『浅草 老舗旦那のランチ』を読んで知った、 三社祭と浅草の人々のコミュニティの関係を実感するのだ。

 一青窈は、財布にいっぱい入れたメモをたよりに、タクシーで店を探して歩 く。 雑司ヶ谷だったかの骨董屋さん、清澄白河の桶田さんの山食堂の豆カレ ー、その周辺の素人っぽいアート・ギャラリー。 歌う場所は、代々木公園が 見えるビル屋上や早稲田奉仕園のスコットホール。 それから小学校2年の時 に亡くなった父親の思い出を語り、懐かしいという自由が丘へ。 私が等々力 にいた時、行っていた尾山台の写真屋さんが、写真館で撮った古い写真を持っ て登場したのには驚いた。 無口なお父さんと行ったという自由が丘デパート の江戸ずしで、あとから来るお父さんを待つ間、小さな大根を食べたと言うと、 その大根が出て来た。