不思議な名前、一青窈(ひとと・よう) ― 2012/08/11 04:38
一青窈、ひとと・よう、不思議な名前である。 「もらい泣き」でデビュー し、「ハナミズキ」がヒットした頃、慶應SFC湘南藤沢キャンパスの環境情報 学部出身と知った。 父は台湾人、母は日本人で、台湾語の漢字名は顔窈(イ エン・ヤオ)、「一青」は母の姓で、その出身地の石川県には地名としても(鹿 島郡中能登町一青)存在するという。 父は、九份の金鉱経営で成功した、台 湾の五大財閥の一、顔一族の長男・顔恵民である。 戦前から戦後にかけて長 く日本にいた父と、母が出会い、台湾で姉の妙と、窈(1976(昭和51)年) が生れた。 幼稚園卒園後に父を台湾に残し、母、姉と日本で暮すことになる。 小学校2年の時、父が癌でなくなり、高校生の時に母も亡くす。 姉一青妙は 歯科医で、舞台女優である。
「窈」の字を見た時、私は「窃盗」の「窃」を連想して、変な名前を付ける ものだと思った。 今回「マチウタ東京」を見て、あらためて漢和辞典を引き、 その思い込みを、深く反省し、ご両親の深い思いを知ったのであった。 「窈」の字は「穴」と「幼」から成り、穴が、暗くふかいことを表す。 そ の意味は、(1)ふかい。おくぶかい。また、とおい。 (2)かすか。また、く らい。 (3)よい。また、うつくしい。 (4)しとやか。また、おくふかい。 (5)あでやか。 (6)のびやか。 このまま詞にして、曲をつけたら、歌になりそうではないか。
私の名前「紘」の意味、「絋」との違い ― 2012/08/12 00:53
そこで、私は父に「八紘一宇」の「紘」、「冠のひも」と聞いていた自分の名 前の「紘」も、漢和辞典を引いてみた。 (1)ひも。冠のひも。 (2)つな。 大綱。また、綱でたばねる。 (3)なわばり。境界。果て。「八紘」 (4) ひろい(ひろし)(広)。おおきい(大)。 音符の「広(こう)」は、肘(ひじ) の意味、冠を着けるとき、顎(あご)の下を曲げて、肘のようにめぐらす紐(ひ も)の意味を表す。
「紘」(JIS文字コード3949)は、糸偏に「ナ」と「ム」を書くのが正しい のだが、よく間違えて「絋」(JIS文字コード6526)…糸偏に「広」と書かれ る。 この「絋」は、「纊」の俗字で、その意味は(1)わた。新しい綿。 (2) わたいれ。綿を入れた着物。 なのだそうだ。 ぜんぜん意味も違うので、お 間違いのないように…。
笠耐さんの「兄、檀一雄の思い出」 ― 2012/08/13 00:42
発端は岩波書店の『図書』8月号、笠耐(りゅう・たえ)さんの「兄、檀一 雄の思い出」を読んだことだった。 笠耐さんは、文末に「物理学」とあるか ら物理学者なのだろう、と思った。 これを書くのにネットで検索すると、『物 理ポケットブック』(朝倉書店・2011年)という笠潤平(おそらくご子息)さ んとの共訳書があり、「前上智大学理工学部助教授」とあった。
「兄、檀一雄の思い出」は、檀一雄句集『モガリ笛』の序句〈潮騒や磯の小 貝の狂ふまで〉で始まる。 句集は季節順に編まれていて、春の句は〈花散る やうづもるる淵に我もゐて〉〈母と会ふてうれしや窓に梨の花〉と続く、のだそ うだ。 そうか、檀一雄は俳句も詠んだんだ、というのが私の第一の感想だっ た。 この文章には、檀一雄が最も敬愛していた佐藤春夫を偲んだ〈面影は眼 交(まなかい)にあり樟若葉〉、亡くなる五日前の絶句〈モガリ笛いく夜もがら せ花ニ逢はん〉も出て来る。
檀一雄が生母トミと11年ぶりに再会し、〈母と会ふてうれしや窓に梨の花〉 と詠んだ時、異父妹にあたる笠耐さんは、母トミのお腹の中にいたという。 昭和8(1933)年夏、一雄21歳、トミ41歳の時で、トミは高岩勘次郎と再婚 していた。 昭和10(1935)年勘次郎が亡くなると、一雄は福岡市平尾の高 岩家によく現れるようになり、耐さんや一歳下の弟を「天使」と呼んで可愛が ったという。 「春の日 うららか 光みち 蝶舞いて 仰げば 空も白く 散 る花びら」。 一雄が作詞・作曲した童謡「耐ちゃんの春」の、手書き水彩画入 りのカラフルな楽譜が残っているそうだ。
姉と耐さんのお琴の先生の世話で、昭和17(1942)年一雄は最初の妻律子 と結婚、東京の石神井公園近くの借家に住み、翌年、太郎が生れた。 昭和19 (1944)年夏から陸軍報道班員として9か月あまり中国を彷徨し、やっと帰国 した一雄と、耐さんが福岡伊崎浦の律子の実家を訪ねた夜、空襲となり、腸結 核で病床にあった律子と満1歳半の太郎とともに、近くの浜の船陰に身を伏せ たことを、よく思い出すという。 その後、律子と太郎は、高岩家が疎開して いた三井郡松崎でしばらく過ごし、やがて一雄と糸島半島の海辺小田(こた) へ越して律子が亡くなり、松崎に戻る。 檀一雄を有名にした『リツ子・その 愛』『リツ子・その死』の律子である。
児童文学者の与田準一の紹介で一雄がヨソ子と再婚する際も、耐さんは一雄 に連れられて、福岡県柳川市に近い瀬高の家を訪れた。 一雄とヨソ子は、松 崎の家で披露宴をし、由布院へ新婚旅行に出かけた。
母トミは一雄と相談し、実弟と親族会社をつくり、福岡市綱場町に二階建の 家屋を新築、商会と美容室を始めた。 一雄は馴れない商売をしながら、劇団 珊瑚座を創めた。 会社は半年足らずで倒産、トミは松崎の屋敷田畑をはじめ 財産のほとんどを失い、福岡市平尾にあった家の離れだけが残り、そこへ移る。
一雄一家が、昭和23(1948)年石神井に近い南田中に住み始めた時、14歳 の耐さんも上京して短期間同居、一雄の収入が増え一家が石神井公園の少し広 い家に移ると、母トミの高岩家が南田中の家に住むようになる。 耐さんだけ は昭和26(1951)年3月からの高校3年の一年間、一雄家に暮らし、多感な 時期だけに兄の影響を受けた。 合格した東京女子大英文科に進まず、自分で 密かに受験したお茶の水女子大理学部物理学科に入学した。 兄一雄にはよく 呼び出されて、出産と子育てに忙しいヨソ子姉に代わって、兄の口述筆記をし て手伝ったという。
檀一雄の子供達と、『火宅の人』の発端 ― 2012/08/14 01:50
というわけで、笠耐さんは、母トミを中心とする大家族の中で、異父兄であ る檀一雄と濃密な関わりをもって、育っている。 檀一雄は、原稿料が入って も、仲間と飲み歩いていて、いつも家計は火の車、月末や年末に借金取りが押 しかけてくる。 耐さんが応対に出ると、誰もが「お父さんによろしくお伝え ください」といったという。 母トミに言われて、兄のところにお金の催促に 行くこともしばしばだった。 「兄が舞台女優の入江杏子(きょうこ)と住む ようになってからは、年老いた母との間にあって兄に厳しい意見をいうことも あった」とある。 『火宅の人』の一件である。
私が不思議に思ったのは、「兄、檀一雄の思い出」に、一雄と律子の子、太郎 は出て来るけれど、ヨソ子の子供たちのことが出てこないことだった。 女優 の檀ふみについて、一言の言及もない。 檀ふみはいつ生れたのか、まさか入 江杏子の子ではないだろうが、と思ったのである。
そこで、新潮日本文学アルバム『檀一雄』を見ながら、沢木耕太郎さんの『檀』 (新潮社)を読み始めた。 結論はこうだ。 4月に律子が亡くなった昭和21 (1946)年11月、山田ヨソ子と結婚(一雄34歳)。 昭和23(1948)年10 月、上京してきたヨソ子、太郎と練馬区南田中に住む。 昭和25(1950)年5 月、次男次郎誕生。 昭和26(1951)年、石神井公園近くに家を購入して転 居。 昭和28(1953)年2月、三男小弥太誕生。 昭和29(1954)年6月、 長女ふみ誕生(一雄42歳)。 昭和30(1955)年8月、次郎日本脳炎を発病。 昭和31(1956)年3月、次女さと誕生。 8月、入江杏子と蔦温泉で事を起す。
沢木耕太郎さんの『檀』は、週に一度、一年間ほど、檀ヨソ子の話を聞いて、 ヨソ子が檀一雄について書いている形式になっている。 決定的な事が起こっ たあとで、家に帰ってきた檀はヨソ子に「僕はヒーさんと事を起こしたからね」 と、言ったという。 新潮日本文学アルバム『檀一雄』には、入江杏子の写真 や、檀がスペインから「MISS HYii IRIE」入江杏子に宛てた絵ハガキの写 真がある。 杏子の本名は、久恵だった。 この時は民芸で研究生から劇団員 になったばかりの女優だったが、檀が9年前に福岡で劇団珊瑚座を創めた時に 17歳で参加していて、ヨソ子や母トミもよく知っていた。
『火宅の人』の出来事 ― 2012/08/15 02:07
沢木耕太郎さんの『檀』は、檀ヨソ子が長女ふみの持っている軽井沢の山荘 で正月を過ごし、『火宅の人』を読むところで始まっている。 秋に沢木が檀一 雄について話を聞きたいと訪ねて来た。 娘の勧めもあって引き受け、週に一 度のインタビューを受けることにしたが、出来事の推移や時間的な経過が不確 かになっている。 そこで『火宅の人』を読むことにしたのだ。 単行本の通 読は初めてだった。 茫然とした。 生身の檀一雄がそこにいた。
ヨソ子は『火宅の人』の出来事で、三たび傷つく。 実際の「事」に傷つき、 書かれたことで傷つき、このインタビューで、さまざまに訊ねられたことで、 三度。 忘れていられたことは忘れたままに、思い出さなくていいことは思い 出さないままに、時間によって美化された思い出だけを抱いて死んでいくこと ができたはずなのに。
檀一雄は、文学青年時代「もつれあうように生きてきた」太宰治の文学碑が 津軽蟹田町に建てられた除幕式に招かれた昭和31(1956)年8月、入江杏子 を同行し、蔦温泉で「事」を起した。 湯河原へ回って、夜遅く帰宅し、「僕は ヒーさんと事を起こしたからね」と、言った。 ヨソ子は、太郎は血がつなが っていないからと納得できても、寝た切りの次郎、乳飲み子さと、まだ幼い小 弥太とふみ、五人の子供を置いて、翌朝家を出る。 頭の中からは、子供のこ とがすっかり抜け落ちていた。 許せない、耐えられないという思いで身を焦 がしていたからだ。 どう考えても許せなかった。 ヨソ子は、ヨソ子なりに 檀に尽してきた。 住み込みの看護婦と、女中もいる、子供は大丈夫なはずだ …。 「出て行くので、お金をください」と檀にいうと、五万円くれた。 庭 で古い下着や端切れを焼き、興奮した勢いでハイヤーを雇った。
友達が管理している鎌倉山の別荘や、真鶴と湯河原の間、吉浜のみかん山の 知人の家に厄介になる。 鎌倉山に届いた手紙で、檀が入江とお茶ノ水の山の 上ホテルで暮していることがわかった。 ヨソ子は吉浜の人に紹介状を書いて もらうために、お茶ノ水の喫茶店で檀に会う。 檀は破れていた靴の代りを買 ってくれたり、布団屋で寝具一揃いを送る手筈を整えてくれたりした。 吉浜 に二週間いて、荷物を取りに石神井に戻ると、義母のトミが南田中から来て、 切り盛りしていた。 義母は立派な人であったが、すべてに作家としての檀一 雄を優先する気持が強かった。 ここでは仕事ができないだろうと、檀と入江 を山の上ホテルに送り出したらしい。 義母が自分の帰ることを望んでいない ことを感じたヨソ子は、主婦としての本能に火を点けられ、私がこの家にいな くてはならない、帰ってこよう、と決心した。
檀一雄と入江杏子は、山の上ホテルに長逗留のあと、浅草千束町のマッサー ジ屋の二階、目白の安アパート、麹町三番町のアパートに移り住み、4年後の 昭和35(1960)年初秋に破局する。 その間、檀は石神井の家には、ひと月 かふた月に一度帰るだけだった。
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