小泉信三・桑原三郎両先生を拾い読む ― 2013/01/25 06:53
福沢に「福澤諭吉子女之伝」がある。 全集で16ページにわたり、子供た ちのことをよくもここまで観察したものだと思う。 と、加藤三明幼稚舎長の 講演の続きを書こうと思って、手元にある本をあちこち、探している内に、つ い引き込まれて、読んでしまう。 どんなものを、探したのかだけを書いてお く。 なお、加藤三明さんの結論は、幼稚舎には福沢先生の気風が、代々受け 継がれて、脈々と流れている。 創立139年の伝統の積み重ねのおかげだ、と いうものだった。
「福澤諭吉子女之伝」は、『福澤諭吉全集』別巻の121~136頁にある。 明 治9(1876)年に、みずからの出自や妻錦の出自、子供たち(同年3月に生れ た四女滝までの二男四女)の生い立ちの様子などを、子供たちが将来知りたが るだろうと、記録したもの。 翌年、翌々年に若干の付記がある。
桑原三郎著『福澤諭吉の教育観』(慶應義塾大学出版会)に、「『福澤諭吉 子女之伝』を読む」がある。 桑原さんは、本文を大量に引用して、解説して いて、終りに「自分の子供の生育の過程をこんなに丁寧に記した父親の例を、 私は日本人の歴史の中で、他に知りません。福澤先生が、我が子の子育てにど んなに関心を持ち、人の親として為す可き仕事を仮初にも蔑(ないがし)ろに 出来ないお方だったことが、よく解ります」と書いている。
小泉信三著『私の福澤諭吉』(講談社学術文庫)所収の、「福澤諭吉『愛児 への手紙』(解題)」。 昭和28年に出た岩波文庫本の「解題」部分。 そ の末尾、「これを読んで感ずるのは、いかに親は苦労をするか、いかなる賢き 人もそれを免れないか、ということである。日本の近世史に偉大と称し得べき 人物を数えれば、誰も福澤を逸することは出来まい。その福澤は賢き父であり、 また痴(おろ)かなる父であった。その事を伝えることにおいてこの書簡集に 如(し)くものはない。それは一人の偉人についての最も真実で最も人間的な 文書と称し得るものであろう。」
加藤三明さんが幼稚舎の6年生と読む授業をしているという、桑原三郎著『福 澤先生百話』(福澤諭吉協会)。 「第七四話 獣身人心」に、「嬉しいのは、 福澤先生が幼稚舎生を大層可愛がって、当時百人も居た幼稚舎生を全員、時々 御自分の家に招(よ)んで、五目飯だあん餅だと、そのつど趣向を変えてご馳 走して下さることでした。/子供を活発にするのに大事なことは、身体の健康 が第一、親や教師の信頼と愛情が第二、第三は運動や勉強の楽しさを、子供自 身が知ることでしょう。どれが欠けても困ります。」
忠臣蔵の俳人たち<等々力短信 第1043号 2013.1.25.> ― 2013/01/25 06:56
先日のように雪が降ると、「大高源吾の頃にも降つた…」という中原中也の詩 を口ずさむ。 吉良邸討入りの日は雪だった。 前日は暮の13日、芝居や講 談では、大掃除用の煤竹売りをしていた大高源五が、両国橋で俳人宝井其角と 会い、〈年の瀬や水の流れも人の身も〉という其角の句に、〈あした待たるゝそ の宝船〉と付ける場面がある。 復本一郎さんの『俳句忠臣蔵』(新潮選書)に よると、このエピソードは舌耕家の仮作(フィクション)だそうだ。 舌耕家 とは講釈師、見てきたような嘘をつきである。
この復本さんの本、赤穂四十七士と俳句の関係を綿密に検証して、実に興味 深い。 泰平元禄の武士達は、若くして大変な教養人だった。 大高源五(史 料では「吾」でなく「五」が一般的という)は、子葉(しよう)なる俳号を持 ち、師は松尾芭蕉の弟子の其角ではなく、実際には水間沾徳(せんとく)だっ た。 沾徳は其角の一歳下で、芭蕉とも交流があった。 沾徳門下の義士俳人 には、源五の子葉のほか、富森助右衛門の春帆、神崎与五郎の竹平(ちくへい)、 萱野三平の涓泉(けんせん)がいた。 義士達の中には、其角門下でその死後、 江戸俳壇の重鎮となる桑岡貞佐門下の俳人もいた。 大高源五の実弟の小野寺 幸右衛門の漸之(ざんし)、岡野金右衛門の放水である。 ほかに白峰門下の吉 田忠左衛門の白砂、間十次郎の如柳、切腹に際し辞世の句〈其魂や風にはなるゝ 凧(いか)のぼり〉を残した萱野和助の禿峰、〈仕合や死出の山路は花ざかり〉 の武林唯七の唯七など、俳号を持つ義士は十名を数え、御大の大石内蔵助自身 も、確たる作品の伝存はないものの、可笑と号して俳句を嗜んでいたらしい。 復本さんは、義士達の堅い団結に、俳諧という座の文学が一役買っていたので は、と推測する。
師の沾徳や貞佐、そして義士俳人達は、大きく見れば、芭蕉文化圏の人々だ った。 芭蕉の死は元禄7(1694)年10月12日、松の廊下の刃傷事件は元禄 14(1701)年3月14日、討入りは翌年12月14日である。 義士俳人はいつ 頃から俳句を詠んだのか。 元禄8年芭蕉一回忌の追善俳諧撰集『翁艸(おき なぐさ)』に、大高源五の子葉、竹平、涓泉、如柳、そして進歩(後述)の句が 収録されている。 子葉には、26歳の元禄10年7月主君浅野内匠頭長矩に随 行した江戸から赤穂までの俳諧紀行文学『丁丑紀行』がある。 箱根の入口、 畑の茶屋で餅を食べ〈朝霧に鮓(すし)の匂ひの覚束な〉、鮓のいい匂いが気に なるが、殿様は倹約家で全員餅だった。 長矩の倹約が刃傷事件の原因だと、 師、後年の『沾徳随筆』にあるそうだ。 芭蕉死後4年、子葉は義仲寺の墓に も詣で〈こぼるゝをゆるさせ給へ萩の露〉の句を残している。 俳号「進歩」 は、83歳まで生きた四十七番目の義士・寺坂吉右衛門だと、復本さんは突き止 める。
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