荷風の父、永井久一郎2013/01/12 06:33

 佐藤春夫は「小説永井荷風伝」で、永井荷風の文学の核について述べている。  荷風永井壮吉は、名門旧家の長男である。 父久一郎(きゅういちろう)は尾 張藩士で幕末、若く志を立てて江戸に出、郷土の先輩鷲津毅堂(きどう)の門 に学び、禾原(かげん)と号して漢詩をよくし、その才学と人品を見込まれて 師の娘を娶る。 大学南校貢進生からプリンストン大学に留学して、帰朝後は 官界に入って荷風出生時は内務省御用掛であり、文部大臣の秘書官、会計局長 などを務めた。 (内務省衛生局の事務官だった明治17(1884)年5月から 18年9月まで主に英・独・仏の上下水道を視察調査した。渡英直後の明治17 年7月ロンドンで開かれた万国衛生博覧会で、ロンドン市水道事務局勤務で衛 生工事に熟練した工学士W・K・バルトンと知り合ったことが、明治20(1887) 年のバルトン来日に結びつくと、時の衛生局長長与専斎の自伝『松香私志』に ある。このバルトンが「日本上下水道の父」と呼ばれる働きをする。) 久一郎 は、荷風が数え19歳の頃には民間に転じて日本郵船に入社、上海支店長や横 浜支店長を務めた。

 荷風は、お茶の水女子師範学校附属幼稚園、小石川服部坂の黒田小学校、小 石川竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科、神田錦町の東京英語学校 を経て、神田区一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学科二学年に編入学する が、16歳から瘰癧(るいれき)のため一年ほど療養生活をして、進級が遅れる。  この時、手術のため入院した下谷の帝国大学第二病院で、看護婦お蓮(れん) をはじめて思慕し、後年文学に志を立てるに及んで、永井の姓と調和させ、ま たお蓮の名に因んで、雅号を荷風と名づけたという。 荷というのは、蓮(は す)のことだからである。 

 荷風が生誕の地、東京小石川金富町の字音にちなむ金阜(きんぷ)山人の別 号によって桑年(48歳)で書いた戯文「桑中喜語」には、こうあるという。 「僕 年甫(はじ)めて十八、家婢に戯る、柳樽に曰く「若旦那夜は拝んで昼叱り」 と蓋(けだ)し実景なり。翌年芳原の小格子に遊び、三年を出でざるに北郭南 品、甲駅、板橋、凡そ府内の岡場所にして知らざる処なきに至る。」 念のため に註をすると、桑中(そうちゅう)…(桑畑の中で密会する意から)男女の不 義。淫事。 北郭…芳原(吉原)。 南品…品川。 甲駅…新宿。