K氏、久保田万太郎と佐藤春夫2013/01/18 06:56

 その告別式を宰領していた人のことを、「K氏」と、佐藤春夫は書いている。  同行した瀬沼氏が「不愉快だな」「こういう荷風の気に入らない人ばかり集って 告別式を宰領しているのは。」「不幸な人だな荷風は」「何だってKなどがこんな ところへ出しゃばって来ているのだ」と囁く。 瀬沼氏というのは、第七章に 偏奇館へ一緒に行っているのが出てくる、荷風より少し年長の佐藤の畏敬する 友人で、アメリカ留学経験もある文学に造詣深い私学の教授だった人だ。(107 頁) K氏については、三田時代の先輩で、もとは荷風お気に入りの一人だっ たが、それが何時どうしてご機嫌を損じたのか、佐藤に荷風と取做してくれと 頼むので、話をつないだが、荷風は冷淡だったとある。(133頁)

 K氏は、明らかに久保田万太郎である。 戸板康二の『久保田万太郎』(文藝 春秋・昭和42(1967)年)には、こうある。 「「荷風傳」の筆者は、Kが晩 年の荷風に接近、文化勲章受賞者に推薦したりして、往年の失地を完全以上に 回復したと冷笑しているのである。/柴田錬三郎によれば(『文藝春秋』昭和 41年3月号「佐藤春夫先生という人」)、春夫は万太郎を評して、ボスでもその 「ボスぶりが悪い」といったそうである。同じ学窓にいながら、『三田文学』 をそれぞれ無視し、何となく反目していた二人であるが、春夫は万太郎より三 年おくれてこの「小説永井荷風傳」が出版された年(昭和35(1960)年)の 秋、文化勲章を受けている。そして、その祝賀会の席で、万太郎と握手してい る写真が新聞にのった。/佐藤春夫は、万太郎の死後、「久保田万太郎君を偲ぶ」 という詩を書き、/もろともに名聲の塵にまみれ/我はただ老来、若き日の君 を敬慕し/塵勞(じんろう)に老いゆく君を惜しみしが/思ひきや、君忽然と して白玉樓中に召さる/蓋し天は君が詩魂の未だ汚れざるを喜び/君を久しく 世に在らしめざりしのみ/と歌っている。/「春泥に委(ゆだ)ねて君を忘れ めや」という短冊を万太郎の霊前に供えて静かに立ち去って行ったそのうしろ 姿をぼくは見ているが、万太郎が死んだ時に、生前の万太郎に対して抱いてい た反感が、春夫には、もはやなかっただろうと思われる。/いかにも奇縁であ るが、ちょうど一年を経て、昭和39(1964)年、同じ5月6日に、佐藤春夫 は自宅で朝日放送のために自伝を録音の最中、急逝した。」 孫の百百子さんと 私達105年三田会が卒業し、10月東京オリンピックが開催され、東海道新幹線 が開業した年である。 来年卒業五十年になるから、今年は佐藤春夫、凌霄院 殿詞誉紀精春日大居士の五十回忌にあたる。

 前年の昭和38(1963)年5月6日、久保田万太郎は梅原龍三郎邸に招かれ た。 同席したのは「留園」の盛毓度夫妻(主賓)、奥野信太郎、小島政二郎、 美濃部亮吉、福島慶子、松山善三・高峰秀子夫妻。 この会で万太郎は、赤貝 の寿司を誤嚥して亡くなる。 その直前、万太郎と小島と奥野がソファで交わ した会話の様子を、戸板康二が『久保田万太郎』に書いている。 「「永井荷風 は、あれはたしかに精神分裂ですよ」と万太郎はいった。佐藤春夫が荷風全集 の新版で公表された日記を見てから、読売新聞に荷風の悪口を書いた話が出た りした。万太郎は上機嫌だったという。」