福沢の「観劇」と「歌舞伎座」2014/07/21 09:25

送っていただいた雑誌『三曲』昭和6年6月、7月号の、萩岡松韻「明治元 年からの昔話」を読んで、森政さんにつぎのような返信をした。 福沢家に出 入りしていたという萩岡松韻と馬場みせ を、『福澤諭吉全集』『福澤諭吉書簡集』 両方の索引に当りましたが、発見できなかった。

 『福澤諭吉全集』の「福澤諭吉著作索引」を、邦楽(当時はそう言わなかっ たかもしれない)関係の文章でもないかと、ざっと見たが、ズバリのものはな く、福沢家での女義太夫の会や茶話会の案内状、集会と飲食、藝人の救恤、芝 居論、演劇などに、関係のものが出てくるかもしれないと、思った。

 やはり福沢自身の嗜みでなく、子どもの教育に関係して、芸能に関心があっ たという範囲なのではないか、と推察した、と。

 ちょうどゼミのOB会があったので、『福澤諭吉事典』の「観劇」の項目と、 「福澤諭吉展」図録78,79頁の家庭音楽会、のコピーを森政さんに渡した。 「観 劇」には、福沢は50歳を越えた明治20(1887)年頃の演劇改良運動の中、ふ と思い立って20年3月に新富座で芝居を観て、いたく感激、その後はすっか り芝居好きになり、市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次と交流があったとあ る。 福沢にとって芝居見物は社交の一つで、社会形成にとって人間(じんか ん)交際の重要性を認識していた福沢は、公私の場を問わず人的交流の場を広 げることを考え、新富座、歌舞伎座、明治座などの芝居見物に姉や縁者、知人 を誘っているそうだ。 福沢は、丸の内に新しい劇場(のちの帝国劇場)をつ くる構想を持った。

 『福澤諭吉事典』の索引に「歌舞伎座」という項目があり、上記「観劇」の 頁のほか、「飯田三治」、「藤山雷太」、「三宅豹三」という福沢の門下生の頁が引 ける。 飯田(笹部)三治は中津藩士で明治4年の慶應義塾入学、福沢家に書 生として住込み、中津市学校で教え、時事新報社勤務、静岡と東京の米穀取引 所理事、歌舞伎座株式会社取締役、目黒競馬会社理事を務めた。 迁也や傘二 の号で特に連歌を好み、俳句を嗜んだ福沢夫人錦の師でもあった。

 藤山(伊吹)雷太は肥前西松浦郡(現、佐賀県伊万里市)の大庄屋の四男、 明治17年慶應義塾入学、長崎県会議員を経て、三井銀行入社、中上川彦次郎 に抜擢され、芝浦製作所支配人、王子製紙専務取締役、三井財閥傘下の企業形 成に大きな役割を果たした。 東京市街鉄道、駿豆電気、東京印刷、歌舞伎座 などの取締役を歴任、大日本製糖の社長に就任、藤山コンツェルンを形成した。

 三宅(桑田)豹三は、備後国(現、広島県)生れ、明治14年慶應義塾入学、 交詢社役員、時事新報に入り、その中核をなす一人となる。 明治24年、福 沢の推薦で、渡韓した井上角五郎に代わって後藤象二郎の秘書になり、臨終を 看取った。 明治38年、歌舞伎座の経営が悪化すると、井上角五郎、藤山雷 太、大河内輝剛(てるたけ)らに株を買い取らせるなどして、専務取締役に就 任した。 この大河内輝剛だが、『福澤諭吉事典』「華族論」「大名華族との交流」 に高崎の旧藩主家の出で、学業が優秀だったので、福沢が学習院の教師に推薦 している、とある。 明治4年の廃藩置県前後から、明治10年の学習院発足 前後までの間に、64名の華族が慶應義塾に入学しているが、そのうち57名は 旧藩主家の当主、またはその子弟だったそうだ。