パソコンが使えるまでに、海の日は暮れる2014/07/25 05:22

 つぎの問題は、無線LANでの接続である。 家内のパソコンも、無線LAN でつないでいたから、いちいちNTTのモデムからコードを伸ばす訳にはいか ない。 家内は昨夜からパソコンが使えず、イライラしていた。 誰か分る人 はいないのか、などと言い、毎朝、私のブログを読んでくれている友達に、携 帯のメールで事情を説明したりしていた。

ルーター(無線LANアクセスポイント)はNECのAterm(エイタームと読 むことが、今回わかった)というのを使っていた。 午前9時は過ぎていたか ら、NECのセンターに電話をする。 実に長い時間待たされて、ようやくつな がり、状況を説明すると、ルーターの問題は、Atermのインフォメーションセ ンターに問い合わせてくれと、番号を教える。 ここが祭日は、休みだった。

 机の下に押し込んであって、よく見えなかったルーターを引き出してみると、 不思議なことに気づいた。 出力側のいくつかの小さなランプは点灯している のに、POWERのランプが点いていないではないか。 電源が入っていない状 態になっていたのに、出力側のランプの点灯ばかり見ていて、気が付かなかっ たのだ。 ルーターの故障に違いない。 おそらく、雷にやられたのだろう。  原因がわかった。

 昼寝をしてから、自由が丘のヤマダ電機にルーターを買いに行く。 やはり NECのAtermにした。 3,970円税抜き。 さっそく、つなぐ。 パソコン がルーターを認識したので、暗号化キーを打ち込む。

 パソコンは無線LANでつながったが、今度はプリンターが働かない。 プ リンターにデータが送れないのだ。 エプソンのカラリオインフォメーション センターに電話をすると、プリンター本体に無線LANの設定をする必要があ るという。 電話でやり方を聞きながら、本体にやはり暗号化キーを打ち込む。  これで、プリンターも使えるようになった。 一件落着。

 この騒動には、おまけがあった。 iPhoneをヘタヘタ使っているのだが、パ ソコンやプリンターと同じように、この無線LANにつなげることがわかった。  うすうす出来るのだろうとは思っていたが、今までやっていなかったのだ。  iPhoneのWi-Fi設定をする。 午前中にアップした「小人閑居日記」が、サク サク見られるではないか。 ハハハ…、転んでも、ただでは起きないとは、こ のことよ。

 海の日はこうして暮れ、大相撲が佳境に入る時間になっていた。

福沢諭吉と歌舞伎<等々力短信 第1061号 2014.7.25.>2014/07/25 05:23

 前号「神式の結婚式、芝居茶屋」について、ちょうど一年前の第1048号「江 戸の「辞典・小百科」を読み解く」の田中朋子さんに、毎月恒例の返信で教え ていただいた。 福沢諭吉が「芝居茶屋」の不用に言及していたと思い、『福澤 諭吉事典』を開いたら261頁にあった、というのである。

 「演劇改良論」という項目だ。 福沢は、50歳を越えた明治20(1887)年 頃、末松謙澄らが唱えていた「演劇改良論」に刺激されて、20年3月初めて新 富座で芝居を観て、いたく感激、その後はすっかり芝居好きになり、『時事新報』 に漫言や社説を書いたり、市川団十郎や尾上菊五郎らと交流するようになる。  21年10月の「芝居改良の説」では、商売経営の方法を芝居にも取り入れ、芸 を売り買いする正しい仕事にすること、料金についても芝居茶屋が間に立つ慣 習は不明瞭、不便なので、このような曖昧なやり方でなく、明白な見物料を取 るべきだとしていた。 福沢は、社会形成にとって人間(じんかん)交際が大 切だと考えていた。 芝居見物もその社交の一つであり、これまでの芝居は下 等社会を相手にしていたけれど、今日は上等客の所望にも応えなければならな いとし、経営や観客サービスばかりでなく、歌舞伎の内容から脚本、役者の演 技に至るまで、改革の提言、改良の注文を出している。

 その明治21(1888)年の7月頃、団十郎を主役にあてて歌舞伎の脚本『四 方の暗雲(くろくも)波間の春雨』を書き下ろした(『福澤諭吉全集』20巻)。  ゼルマニア皇室の皇女、安那姫の危機を救った波瀾(ぽーらん)国の太子歴山 公子との恋物語が発端で、イギリス、ロシア、フランスなどの国際情勢をから ませ、大宰相美寿麿(みすまろ)公の苦衷を中心に、国際スパイの暗躍、電信 技士の暗号解読などもある筋立て、結局悪人は亡び忠臣さかえ皇室万歳、安那 姫と歴山公子の悲恋もハッピーエンドを迎える全編十幕の大脚本だったが、な ぜか上演はされず、幻の台本に終わったという。

 明治23(1890)年10月12日、横浜公園、英人スペンサーによる風船乗り (軽気球揚げ)に沢山の見物人が集まり、その中に尾上菊五郎もいた。 軽気 球には『時事新報』の牌(ふだ)が下がり、その広告のビラも撒かれたようだ。  11月11日には、W・K・バルトン設計の浅草凌雲閣が開業した。 その両方 を取り入れ、菊五郎は翌24(1891)年1月、歌舞伎座で河竹黙阿弥作『風船 乗評判高閣(うわさのたかどの)』を上演した。 洋楽に乗って、菊五郎扮する スペンサーが軽気球で上昇、客席にビラを撒く、『時事新報』の広告だ。 次に 花道から人力車で登場した菊五郎、“Ladies and Gentleman, I have been up at least three thousand feet.”と演説を始める。 この仕掛け人は福沢諭吉、英 語は甥の今泉秀太郎が書き、塾の教員マコーレーが直した。