福沢諭吉と歌舞伎<等々力短信 第1061号 2014.7.25.>2014/07/25 05:23

 前号「神式の結婚式、芝居茶屋」について、ちょうど一年前の第1048号「江 戸の「辞典・小百科」を読み解く」の田中朋子さんに、毎月恒例の返信で教え ていただいた。 福沢諭吉が「芝居茶屋」の不用に言及していたと思い、『福澤 諭吉事典』を開いたら261頁にあった、というのである。

 「演劇改良論」という項目だ。 福沢は、50歳を越えた明治20(1887)年 頃、末松謙澄らが唱えていた「演劇改良論」に刺激されて、20年3月初めて新 富座で芝居を観て、いたく感激、その後はすっかり芝居好きになり、『時事新報』 に漫言や社説を書いたり、市川団十郎や尾上菊五郎らと交流するようになる。  21年10月の「芝居改良の説」では、商売経営の方法を芝居にも取り入れ、芸 を売り買いする正しい仕事にすること、料金についても芝居茶屋が間に立つ慣 習は不明瞭、不便なので、このような曖昧なやり方でなく、明白な見物料を取 るべきだとしていた。 福沢は、社会形成にとって人間(じんかん)交際が大 切だと考えていた。 芝居見物もその社交の一つであり、これまでの芝居は下 等社会を相手にしていたけれど、今日は上等客の所望にも応えなければならな いとし、経営や観客サービスばかりでなく、歌舞伎の内容から脚本、役者の演 技に至るまで、改革の提言、改良の注文を出している。

 その明治21(1888)年の7月頃、団十郎を主役にあてて歌舞伎の脚本『四 方の暗雲(くろくも)波間の春雨』を書き下ろした(『福澤諭吉全集』20巻)。  ゼルマニア皇室の皇女、安那姫の危機を救った波瀾(ぽーらん)国の太子歴山 公子との恋物語が発端で、イギリス、ロシア、フランスなどの国際情勢をから ませ、大宰相美寿麿(みすまろ)公の苦衷を中心に、国際スパイの暗躍、電信 技士の暗号解読などもある筋立て、結局悪人は亡び忠臣さかえ皇室万歳、安那 姫と歴山公子の悲恋もハッピーエンドを迎える全編十幕の大脚本だったが、な ぜか上演はされず、幻の台本に終わったという。

 明治23(1890)年10月12日、横浜公園、英人スペンサーによる風船乗り (軽気球揚げ)に沢山の見物人が集まり、その中に尾上菊五郎もいた。 軽気 球には『時事新報』の牌(ふだ)が下がり、その広告のビラも撒かれたようだ。  11月11日には、W・K・バルトン設計の浅草凌雲閣が開業した。 その両方 を取り入れ、菊五郎は翌24(1891)年1月、歌舞伎座で河竹黙阿弥作『風船 乗評判高閣(うわさのたかどの)』を上演した。 洋楽に乗って、菊五郎扮する スペンサーが軽気球で上昇、客席にビラを撒く、『時事新報』の広告だ。 次に 花道から人力車で登場した菊五郎、“Ladies and Gentleman, I have been up at least three thousand feet.”と演説を始める。 この仕掛け人は福沢諭吉、英 語は甥の今泉秀太郎が書き、塾の教員マコーレーが直した。

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