ドラマチックな柳原白蓮の生涯2014/07/05 06:08

 朝ドラ『花子とアン』に、蓮子(れんこ・仲間由紀恵)の名で登場している 柳原白蓮(びゃくれん)・燁子(あきこ)(1885(明治18)~1967(昭和42)) だが、その生涯は村岡花子よりずっとドラマチックだ。 朝ドラには向かない かもしれないけれど。

 「歌人。東京麻布生れ。伯爵柳原前光(さきみつ)の娘で、本名燁子、16歳 で華族女学校を中退し北小路資武(すけたけ)と結婚して一児をもうけるが離 婚。東洋英和女学校に学びながら、佐々木信綱主宰の短歌結社竹柏会(ちくは くかい)に入会し、『心の花』に短歌を発表。九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚 したが、夫との生活に満たされず、その胸中を歌に託し、1915(大正4)年歌 集『踏絵』を刊行。才と美貌を讃えられた。1921(大正10)年、社会運動家 の宮崎龍介と恋に落ち、東京に出奔すると同時に、夫に対する離縁状を新聞に 発表。世間の非難を浴びるとともに大正恋愛史を彩る存在になった。その後は 宮崎の労働運動を助けながら、歌や評論に活躍。」(『日本歴史大事典』)

 たまたま家内が友人から、2008・09年に開かれた『柳原白蓮展』の図録を 借りてきた。 副題は「愛を貫き、自らを生きた、白蓮のように」、朝日新聞社 の主催だった。 図録で知ったことを、いくつか書いておく。

 白蓮の父は伯爵柳原前光で、叔母にあたる愛子(なるこ)は大正天皇の生母 だったから、天皇の従妹にあたる。 生母は柳橋の芸者、奥津りょう、生後ま もなく柳原家に入籍する。 この生母りょうだが、父親は新見(しんみ)豊前 守正興、福沢が咸臨丸で随行した万延元(1860)年幕府初の遣米使節正使、外 国奉行であり、母親は徳川家祐筆大久保彦左衛門の家系だったという。 高級 幕臣の娘が、維新の瓦解で、芸者になっていたわけだ。

 宮崎龍介の父は、中国革命運動の援助者滔天(とうてん・1870~1922)、名 は虎蔵・寅蔵、熊本県生れ、孫文と深く交わり、その革命運動を支援した。 母 はツチ(槌子)、豪農前田案山子の三女で、二女卓子は夏目漱石の『草枕』のヒ ロイン那美さんのモデル。

 白蓮・燁子は、9歳で遠縁にあたる子爵北小路随光(よりみつ)の養女とな り、15(16)歳で三男資武と結婚して功光を産むが、どうしても夫になじむこ とが出来ず、家出のような形で5年後に離婚した。 父の前光は既に死去して おり、本邸に戻ることは許されず、母の隠居所に幽閉状態に置かれるが、入江 為守子爵に嫁いでいた姉の信子の助言もあって、1908(明治42)年、23歳で 東洋英和女学校5年に編入する。 生涯の友となる、15歳の村岡花子とクラス メートになるわけだ。

キリストのむすめとよばれほこりもて学びの庭にありしいくとせ