歌武蔵「稲川」の本篇 ― 2015/06/07 06:35
大坂に稲川という力士がいて、江戸へ出てきて、勝ちつづけていた。 おこ もさん、乞食が来ていますが…。 いくらか出してやれ、紙に包んで。 あっ しは銭なんかいらない、お関取に一目会いたい。 おめえさんの贔屓なんで、 好きで、好きで、ごっつおうしたい、食べてもらえますか。 遠慮ねえ、頂戴 します、ごっつぁんです。 竹の皮づつみの蕎麦と、欠けた丼を出した。 蕎 麦屋が器を貸してくれないんで、あっしがいつも使っている丼ですが、よく洗 ってきましたから。 奴(やっこ)、箸、持って来い。 乞食の喜んだの、喜ん だの…、本当に召し上がってくれました。
関取が、涙ぐんでますよ。 わしの恥を申し上げるが、江戸へ来て十日間勝 ちっぱなしをしているのに、贔屓が一人もいなかった。 おこもさんが初めて、 嬉しかった、目から汗がこぼれました。 関取、手を上げてくんねえ。 わっ しは魚河岸の新井屋の若えもんで、仲間内の寄合でね、心技体揃って相撲だっ て話になった。 稲川は、強いけれど人気がない、おこもさんの恰好をして、 蕎麦を持って行ったら、食うだろうか。 あっしは、食うと言ったが、十人が 十人、食わねえと言った。 だますつもりじゃなかった、この通りです。 大 名であろうと、おこもさんであろうと、贔屓に変わりはない。 口直しを持っ て来ます。
河岸の連中が、いい酒、いい料理を運んできて、河岸一統で贔屓にすること になった。 この話が伝わり、稲川の人気はいやがうえにも高まった。 大和 錦の関取、千両幟のお噂で。
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