本井英主宰の報告「虚子の籐椅子」68句2015/06/18 06:28

 「籐椅子」と「未央柳」の句会の季題研究は、本井英主宰の担当、「籐椅子」 を選び「虚子の籐椅子」68句を報告なさった。

 「籐椅子」は案外に新しい季題らしい。 最初の句は明治32年の<夏羽織 脱で且倚る籐の椅子>で、「籐椅子」というより「夏羽織」の句。 次は大正8 年の<籐椅子に少し見ゆる海今は紺><籐椅子にしぶく右舷の雨に在り>と、 船のデッキに置いてある椅子で、軽くて、移動可能だ。 大正9年も、大阪- 別府間の豪華客船、紅丸にて<客は皆右舷日蔭の籐椅子に>に始まり、宿屋の 縁や廊下、耶馬溪にて<籐椅子の背中の闇を顧みし>、日出(ひじ)藤泉居< 籐椅子に高崎山の影や来し>がある。 大正15年の四句の内、三句は船だが、 <庭を背に籐椅子にある女かな>もある。 昭和2年、和歌浦の<籐椅子の人 に遊船かくれけり>は、海辺の宿。 昭和3年・鹿児島<廻り縁(えん)の籐 椅子にあり桜島>、昭和4年・満州湯岡子温泉<籐椅子によればねむたき旅づ かれ>。

 昭和5年になると、家庭句会の<籐椅子を窓際によせ月を見る><我名札つ けてあきをる籐椅子かな>が出る。 昭和6年、茶店より運び来りて<戦場ヶ 原の真中に籐椅子置く>。 昭和11年には渡仏途次の船の三句、<籐椅子出 すボルネオ海を航行す>など。 同じ年の、風生招宴・次官官邸の<籐椅子に あれば草木花鳥来>は、花鳥諷詠を詠んだ重要な句で、深見けん二さんは自身 の俳誌の名を『花鳥来』としている。

 昭和14年、有馬温泉兵衛旅館<どの楼も籐椅子(トイス)に人のあらぬ午 後>と西日を詠み、<三味の音や籐椅子の湯女は煙草のむ>。 昭和15年6 月24日の玉藻十周年の<籐椅子にあり国亡ぶニュース聴く>は、フランスが ドイツに屈服したニュース。 昭和16年の<タービンの響き籐椅子に伝はり 来(く)>など三句は、大連行きの木浦(モッポ)の先「多島海の沖を通る」 船の句。 昭和18年東慶寺句謡会<籐椅子にくつろぎゐしが今は亡し>は、 円覚寺の釈宗演を詠んだものか…。

 戦後、昭和22年は小諸、風生ら来<古(ふる)籐椅子面(おもて)起しぬ 客を得て>。 昭和23年、三笠宮若杉殿下などとの十五人会、葉山御用邸に 陛下がいらっしゃると重臣の詰める葉山立石茶屋で、<両陛下まします如く籐 椅子置き>。 昭和25年草庵、<古家のキヽキヽと鳴るにや籐椅子鳴るにや >では、リズム感の句は音数じゃないことがわかる。 同じく草庵、新人会春 菜会稽古会、<それにより句作る籐椅子一つかな>。 昭和28年山中湖山廬 稽古会、<大富士と対面したる籐椅子かな>。

 昭和29年からは、鹿野山神野寺(じんやじ)で、たくさんの「籐椅子」の 句、そして「蠅叩」の句を詠んでいる。 <山の蝶吹かれ止まりぬ籐椅子に>、 昭和30年<蠅叩置いて籐椅子に腰かけぬ>、昭和31年<左手に籐椅子抱へ処 変へ>は軽さを詠み、<籐椅子に更に啓子に名残あり>の啓子は女中のような 村の娘。 昭和32年には、<籐椅子は禅搨(ぜんとう)蠅叩は打棒>(禅搨 は坐禅に用いる腰掛、打棒は警策)や、リズム感の句、<夕冷えや籐椅子を部 屋に入れたり出したり>。 <籐椅子に手品の如く句生れ>もあれば、<籐椅 子に句の生れざる時もあり>という句もある。