佐藤弥六が福沢塾で学んだこと2016/05/21 06:32

 佐藤弥六は、自身が福沢塾などで新しい学問を学んだだけに、子供の教育の ための出費を惜しまなかった。 清明は、東京駒場農学校(のちの東大農学部) を卒業して青森県庁、横浜税関に勤め、秋田種馬所長、農商務省馬政局長を務 めた。 密蔵は、慶應義塾を卒業して大阪毎日新聞社に入り、経済部長や副主 筆、雑誌『エコノミスト』主筆を務めた。 弥六は、娘たちも上京させて専門 学校に進学させた。 きむさんの知る二人の伯母、そみと、そのは、ともに若 くして未亡人となったが、取得した教員免許状のおかげで、女学校に勤めて子 供を育てた。 弥六は、持っていた畑地などのすべてを売って子供たちの学費 に充て、最後には住んでいた家屋敷まで手放してしまった。 きむさんの父、 毅六は弥六45歳の時の末子で、札幌農大を卒業して営林局に勤務した。 毅 六が大学に進むころは、弥六にはもう財力がなくて、学費は長兄清明が出して くれたという。

 弥六の帰郷後の生き方には、福沢の新しい学問の影響があった。 弥六の著 書『林檎図解』は生産者のためのガイドブックであり、『津軽のしるべ』は旅行 者のためのガイドブックだった。 福沢の日常生活に役立つ実学を学ぼうとい う主張がはっきりと表れている。 財産のすべてを子供の学費につぎ込んで見 返りを求めなかったのは「子に対して多を求むるなかれ」(『福翁百話』26)だ し、娘たちの上級学校進学は福沢の女権論に通じる。

 弥六は、若い時に教えを受けた福沢諭吉を深く尊敬し、終生師の恩を忘れな かった。 葬儀では、生前の言い付けに従って、白装束ではなく、郷里に帰る 時に福沢先生からいただいてきた着物を着せて、旅立たせたという。

 14日、福澤諭吉協会一行は、弘前市の禅林街の入口、月峰院にある佐藤弥六 を始めとする一族のお墓をお参りした。